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[[Image:Guidobaldo montefeltro.jpg|thumb|200px|right|グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ、[[ラファエロ・サンティ]]画]]
[[Image:Raffaello - ElisabettaGonzaga.jpg|180px|right|thumb|エリザベッタ・ゴンザーガ、[[ラファエロ・サンティ]]画]]
'''グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ''' (Guidobaldo da Montefeltro, [[1472年]][[1月17日]] - [[1508年]][[4月10日]])は、[[イタリア]]の[[傭兵]]。[[ウルビーノ]]公。
 
[[フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ]]と妻バッティスタ・スフォルツァの子として、[[グッビオ]]で生まれた。
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[[マントヴァ]]侯[[フランチェスコ2世・ゴンザーガ]]の妹エリザベッタと結婚した。グイドバルドの性的不能のせいで2人には子供ができないものの、エリザベッタは彼との離婚に同意しなかった。
 
[[フランス]]王[[シャルル8世 (フランス王)|シャルル8世]]が南[[イタリア]]に侵攻した際、教皇軍側について戦った。のち、[[ヴェネツィア共和国]]に雇われた。1496年、教皇軍について[[ブラッチャーノ]]近郊で戦った際、グイドバルドは[[オルシーニ家]]とヴィテッリ家に捕らえられ、同じ年のうちに放された。
 
グイドバルドは、1497年に[[チェーザレ・ボルジア]]軍に攻められてウルビーノから逃れた。6年後、チェーザレの父[[ローマ教皇]][[アレクサンデル6世 (ローマ教皇)|アレクサンデル6世]]が崩御すると、ウルビーノへ舞い戻った。子供のないグイドバルドは、姉ジョヴァンナの子で教皇[[ユリウス2世 (ローマ教皇)|ユリウス2世]]の甥にあたるフランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレを養子にした。
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グイドバルドは[[フォッソンブローネ]]で[[ペラグラ]]のため、36歳で若死にし、あとをフランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレが継いだ。
 
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[[Category:イタリア諸国の君主]]
[[Category:イタリアの軍人]]
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[[Category:1508年没]]
 
[[ca:Guidobald I Montefeltro]]
[[de:Guidobaldo da Montefeltro]]
[[en:Guidobaldo da Montefeltro]]
[[fr:Guidobaldo Ier de Montefeltro]]
[[it:Guidobaldo da Montefeltro]]
[[ka:და მონტეფელტრო, გვიდობალდო]]