「ビートルズの解散問題」の版間の差分

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Bakkai (会話 | 投稿記録)
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初期の頃は天才メロディメーカー「レノン&マッカートニー」の陰に隠れ、自分の実力を十分に発表出来ず(1アルバムにつき1~3曲程度の収録数であった)、寡黙な性格も手伝ってかメンバーの中で一番影が薄く、「静かなるBeatle」という嬉しくない仇名を持っていた。
 
しかし、彼の実力は後期になるにつれて少しずつ開花していき、インド音楽への接触や民族楽器[[シタール]]を導入する等、独自の世界観を構築する事に成功し、その作曲能力はレノン&マッカートニーに匹敵するまでになる。にも関わらず、後期においてメンバー内での発言力を有していたポールは彼の能力を軽視し、何回も演奏技術にケチをつけたり、自由な作品発表の場を与えずにいた。また、ジョンもビートルズがライブ活動を止め、スタジオ活動しかしなくなったことに強い不満を持っており、スタジオ活動を重視していたジョージとの間に溝が出来ていた。さらに、この時期のジョンは原点回帰志向が強くなっており、ジョージの作る、現代音楽や民族音楽の影響を色濃く受けた楽曲にほとんど関心を示さず、ゲット・バック・セッションにおいては明らかに不快感を示している場面も記録されている(当時、ジョンがどういう方向性を模索していたかは、[[プラスチック・オノ・バンド]]としてのステージを収録した『[[平和の祈りをこめて|平和の祈りをこめて~ライヴ・ピース・イン・トロント1969~]]』やソロアルバム第1作の『[[ジョンの魂]]』でうかがい知ることが出来る)。こうした事実から、ビートルズ末期には、ジョージは完全にビートルズ内で孤立状態であったのは間違いない。しかし、その後、ジョンのセカンドアルバムである『[[イマジン (アルバム)|イマジン]]』にジョージは参加しており、ジョンとの和解は比較的早かったようだが、ポールとの関係はその後もなかなか修復されることはなかった。ビートルズにおいて最も有名な敵対関係はジョンvsポールの構図であるが、一番深刻で泥沼な関係にあったのはこの両者の関係であったともいえる(ジョンとポールは一時的に確執状態があったがそれも数年間だけで、ポールがジョンのダコタハウスへ訪れた記録がある)。
 
ビートルズ解散直後でもメンバー同士がセッションやプライベートで会った記録は数多くあるが、ポールとジョージが一緒になった記録はあまり見られない(『[[想いは果てなく~母なるイングランド]]』『[[ディス・ワン]]』も参照)。