「ルイーズ・アンリエット・ド・ブルボン=コンティ」の版間の差分

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'''ルイーズ・アンリエット・ド・ブルボン=コンティ'''(Louse Henriette de Bourbon-Conti, [[1726年]][[6月20日]] - [[1759年]][[2月9日]])は、[[オルレアン公]][[ルイ・フィリップ1世 (オルレアン公)|ルイ・フィリップ1世]]の妃。独身の頃は“マドモワゼル・ド・コンティ”(Mademoiselle de Conti, コンティ令嬢)と呼ばれた。
 
コンティ公ルイ・アルマン2世と妃[[ルイーズ・エリザベート・ド・ブルボン=コンデ|ルイーズ・エリザベート]]の娘として[[パリ]]で生まれた。当時[[シャルトル]]公だったルイ・フィリップと1743年12月に結婚。舅[[ルイ・ド・ブルボン (オルレアン公)|オルレアン公ルイ]]は、息子の花嫁探しに大変苦労したため、[[キリスト教徒]]として気高い見本であるとか、信仰が篤いとか、そういった女性に求められる美徳をあまり重視しないようにし、少々良くない評判があっても目をつむることにした。
 
結婚後、ルイーズ・アンリエットは、オルレアン公ルイが嫁に求めた美徳とは正反対の女性であることが明らかになった。彼女は身持ちが悪くふしだらで、絶え間なく醜聞を巻き起こした。3人生んだ子供たちのうち成人した2人、ルイ・フィリップ(のちの[[ルイ・フィリップ2世 (オルレアン公)|オルレアン公ルイ・フィリップ2世]])とルイーズ・マリーは、ルイ・フィリップ1世の子供ではないといわれていた。