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'''歩闡'''(ほせん、[[222年]]?-[[272年]])は、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の[[武将]]。[[歩隲|歩騭]]の次男で子。[[歩協]]の弟。
兄・歩協の死後、後を継いで呉に仕えぎ、西陵の督となっり、加えて昭武將軍を拝命し西亭侯に封ぜられた。ところが272年、呉の[[皇帝]]・[[孫皓]]から人事異動の繞帳督に就くために都の武昌に帰還するよう戻れとの命が下った。突然に召還の命令を出され受けたが、闡は讒禍をおそれに応じなかった上、西陵の城に籠もって[[西晋|晋]]に投降してた。晋は闡が西陵の諸軍事を都督しま、衛将軍・儀同三司([[三公]]と同様の礼遇を受けた)であった。これため、侍中とし、仮に怒っ交州牧を兼任させ、宜都公に封じた。孫皓は、[[陸抗]]に命じて西陵を攻略させ、歩闡は落城後に処刑されてしまった。
歩闡が呉を裏切った理由は、孫皓に疎まれていた自分が急に人事異動のための帰還命令を出されたため、自分が孫皓に処刑されてしまうのではないかと恐れて、謀反を決意したのだとも言われている。暴君の孫皓が主君であったなら、その程度の理由で歩闡が呉を裏切ったとしても、不思議では無いであろう。
[[Category:三国志の登場人物|ほせん]]
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