「相馬愛蔵」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
16行目:
愛蔵は高給を払って、外国人技師を採用し、次々に新製品を考案するなど、中華饅頭、月餅、ロシヤチョコレート、朝鮮松の実入りカステラ、インド式カリーなどの国際商品でデパートの進出に対抗した。 また食堂、喫茶なども経営して次第に大きくなり、現在の[[中村屋]]隆盛の礎を築いた。一方、店員の人格、資質の向上のために研成学院を創立した。愛蔵の商業道徳は、無意味なお世辞を排し良品の廉価販売に徹したことにある。
 
また、愛蔵は店の裏にはアトリエをつくり、[[荻原碌山]]、[[中村彝]]、[[中原悌二郎]]、[[戸張狐雁]]らの出入が盛んとなり、[[大正]]4年には、インドの亡命志士[[ラス・ビハリ・ボース]]を右翼の重鎮・[[頭山満]]に頼まれてかくまい、大正7年には、長女俊子がボースと結婚した。その縁で、中村屋は日本初のインド式カレーを学び発売することにつながった。
 
[[相馬黒光]]夫人も荻原碌山の終生のパトロンであったし、ロシアの盲詩人[[エロシェンコ]]の面倒をみたり、[[木下尚江]]との交友もあって中村屋はまさに文芸サロンであり、夫人はサロンの女主人公であった。