「カール・ルエーガー」の版間の差分

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市長となってからは反ユダヤ主義的発言は少なくなり、ルエーガーにとってそれは単なる[[選挙戦術]]だったという見方もある。しかし、その演説は若き[[アドルフ・ヒトラー]]に多大な感化を与えており、カール・ショースキーはかれを「ウィーンの自由主義にとどめを刺した人物」<ref>カール・ショースキー(1981)</ref>として厳しい評価を与えている。その半面、ウィーンの[[ガス]]、[[水道]]、[[電気]]など[[公共施設]]の拡充に尽力してそれを市営化し、福祉設備を建てるなどの都市整備をおこない、ウィーンの大都市化と都市生活の近代化に貢献した。党が保守化して[[民族主義]]的になる一方、かれ本人は民族融和主義の考えを述べたこともあり、帝国改革の考えももっていたとされる。
 
のウィーンには、「ドクター・カール・ルエーガー広場」、「ドクター・カール・ルエーガーリンク」というルエーガーの名のついた広場や通り(道路)がある。
 
== 脚注 ==
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[[Category:1910年没|かる るえかあ]]
 
[[en:Karl Lueger]]
[[cs:Karl Lueger]]
[[de:Karl Lueger]]