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閔中王の編集に準じ、「解」姓説について追記、参考文献追加(鮎貝房之進)。関連項目として同時代の新羅、百済王を併記
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'''慕本王'''(ぼほんおう、生年不詳 - [[53年]])は、[[高句麗]]の第5代の王(在位 [[48年]] - 53年)。姓は高、[[諱]]は解憂または解愛婁<ref>閔中王及び慕本王の諱に「解」の字が共通しており、[[扶余]]王の[[解夫婁]]、[[東明聖王]]伝説に見る朱蒙の父[[解慕漱]]の連想でこれを姓とみる説もある。解({{lang|ko|해}})は太陽・日輪の古朝鮮語を転写したものであり、天帝の子を自称した解慕漱にふさわしいとする。→鮎貝1987 pp.72-74.</ref>)。『[[三国史記]]』高句麗本紀では先々代の[[大武神王]]の嫡子であり、『[[三国遺事]]』王暦では先代の[[閔中王]]の兄とする。[[32年]]12月、大武神王の嫡子として太子に立てられたが、[[44年]]10月の大武神王の死去の際には幼少であったため、王の弟の閔中王が推戴されて王位に就いた。ており、48年に閔中王が亡くなると解憂が王位に就いた。
 
== 治世 ==
[[49年]]2月、将軍を派遣して[[後漢]]の[[北平郡|北平]]・[[漁陽]]・[[上谷]]・[[太原]]を襲撃させたが、[[遼東]][[太守]]の[[蔡彤]]は恩義と信義とをもって対応したので、両国間の関係は和親に戻った。『[[後漢書]]』蔡彤伝に拠れば、[[匈奴]]対策として[[鮮卑]]などを懐柔しようとした蔡彤が鮮卑の[[朝貢]]に対して何倍もの下賜品を与えたことを伝え聞いた高句麗が、それまで敵対していたにもかかわらず後漢の遼東へと朝貢を行ったという記事があり、符合している。
 
国内の飢えた民に施すこともあった([[49年]]8月)が、後には人の上に座ったり人を枕にするなどして揺れ動いたものは容赦なく殺し、諫言する臣は弓で射殺すなど、暴虐の王と化した。そのために、いつか王に殺されると恐れた杜魯という側近によって53年11月に殺害された。そして慕本原に葬られ、慕本王と[[諡]]された。
 
==参考文献 脚注 ==
<references />
 
== 関連項目 ==
*[[百済]] : [[多婁王]](在位 : 28年 - 77年)
*[[新羅]] : [[儒理尼師今]](在位 : 24年 - 57年)
 
== 参考文献 ==
*『[[三国史記]]』第2巻 [[金富軾]]撰 [[井上秀雄]]訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
*[[鮎貝房之進]]『朝鮮姓氏・族制考』国書刊行会、1987(原著 1937)
*井上秀雄『古代朝鮮』 講談社<講談社学術文庫>、2004 ISBN 4-06-159678-0(原著『古代朝鮮』日本放送出版協会、1972)
 
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[[Category:朝鮮国高句麗王|ほほんおう]]
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