「沼尻の合戦」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
節分け、一部補足
16行目:
 
== 戦後処理 ==
合戦自体は引き分けであったが、戦後処理は北条氏の優勢に推移した。梶原政景が再び佐竹氏に服している一方、由良長尾両氏は北条氏に攻められ年内に降伏、所領を没収され[[桐生柄杓山城]](桐生城)などへ異動されるなど、従来の勢力圏を復活するため双方が行動した。しかしながら北条氏による北関東諸領主への個別攻撃は、それに止まらず広がりを見せた。天正14年[[1月1日 (旧暦)|元旦]]([[1586年]][[2月19日]])、佐野宗綱が長尾氏との戦闘で戦死すると後継争いが起こり、最終的に[[北条氏忠]]が養子に入った。また同年、[[皆川広照]]も北条氏に降伏。下野西半は北条氏の勢力範囲となった。
 
佐竹・宇都宮両氏はこれまで以上に秀吉への依存を深め、東国出馬を頻りに申し入れているが、家康との講和問題や[[九州征伐]]のため再三にわたり延期された。この間北条氏は、天正14年の[[惣無事令]]以来和戦両様の構えで来たものの、家康の勧めを受け、天正16年[[8月22日 (旧暦)|8月22日]]([[1588年]][[10月12日]])の[[北条氏規]]上洛・秀吉会見により一応服属の意思表明をしたことによって豊臣大名として位置づけられた。[[真田氏]]との領土紛争においても秀吉の仲裁によって北条氏に有利な和解をする事になっていた。しかし秀吉による[[北条氏政|氏政]]・氏直いずれかの上洛要求に応えなかったことから関係は悪化、双方戦争準備にかかる中、天正17年([[1589年]])11月の[[名胡桃城]]占領事件を切っ掛けとして[[小田原の役]]が勃発、佐竹・宇都宮両氏の長年の要望であった東国出馬となった。