「マイケル・ドゥーハン」の版間の差分

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==略歴==
[[1987年]]にTT-F1世界選手権日本ラウンドにプライベートチームから出場、3位入賞し注目を集める。[[1988年]][[スーパーバイク世界選手権]]日本大会第2レースで優勝。ちなみに日本ではこの年まで「マイケル・ドーハン」と呼ばれることが多かった。[[1989年]]、同郷の先輩[[ワイン・ガードナー]]のチームメイトとして[[ロスマンズ]]・[[本田技研工業|ホンダ]]チームに加入し、ロードレース世界選手権500ccクラスに本格参戦を始める。[[1990年]]に500cc初優勝、[[1991年]]ランキング2位となるなど徐々に頭角を現し、ホンダの新エースとしてチャンピオン候補と目されるようになる。
 
1992年シーズン、ホンダは[[ホンダ・NSR500|NSR500]]に不等間隔位相同爆方式のニューエンジン(通称ビッグバン・エンジン)を搭載し、エースライダーとなったドゥーハンに託した。このニューマシンを駆るドゥーハンはヨーロッパラウンドで4連勝。シーズン半ばにしてポイントを大きくリードし、初タイトル獲得を予感させる。ところが、オランダGPでの予選走行中に転倒を喫し、右足に重症を負ってしまう。以降4戦を欠場し、強行出場するも最終戦で[[ヤマハ発動機|ヤマハ]]の[[ウェイン・レイニー]]に僅差のポイント逆転を許し、王座への執念は実らなかった(レイニーはタイトル3連覇達成)。翌[[1993年]]も後遺症に苦しんだが辛抱強く戦い続け、イタリアGPで復帰後初優勝を挙げる。