「国家神道」の版間の差分

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『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』等の古典を根拠として万世一系の[[天皇]]が日本を統治すること、国家の中心に存在する天皇と[[国民]]との間に伝統的な強い紐帯があることを前提に、全国の神社は[[神祇官]]の元に組織化され、諸制度が整備された。当初、全国の神社は全て官有となり、全[[神職]]は[[官吏]]待遇([[神官]])となった。だが、制度面として未成熟な部分があり、[[神官]]と呼ばれる官吏としての神職は[[伊勢神宮]]に奉仕する者のみとなった。官社の神職には官等を配し、位階、勲等を付与した。その多くは判任待遇としたが、一部は奏任官待遇とし、叙位の恩典も与え、退職後の恩給制度も整備した。
 
[[政教分離]]に基づく[[信教の自由]]は近代的国家を樹立する上で必要とされた為、[[大日本帝国憲法]]下でも認められ、[[仏教]]やキリスト教は活動を認められていた。[[大日本帝国憲法]]第28条の条文では「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」となっており、この「臣民タルノ義務」の範囲が議論の的になったが、内務省は神社への崇敬はこれに含まれないという見解を持っていた(20条・21条に明確に記載された兵役と納税の義務は宗教上の理由で拒否は出来ない、という見解。)。宗教的な信仰と、神社と神社で行われる祭祀への敬礼は区分されたが、他宗教への礼拝を一切否定した完全一神教の視点を持つキリスト教徒や、厳格な政教分離を主張した[[浄土真宗]]との間に軋轢を生んだ面もある(但し、神社神道は宗教で無いとして、宗教界から追い出そうとしたのも浄土真宗である点も併記される必要がある)。
 
<!--神道の宗教としての側面を維持しようとする教団は公認された一部のものが[[教派神道]]として分離され、神社に於いて祭祀としての側面のみを有するものが国家神道とされた。それ故、「神道」と名付けられてはいるものの、その実態は日本式[[唯一神教]](唯一絶対の[[権威]]を戴いた宗教)という事も可能である。何故、そのような実態になったのかは[[マックス・ヴェーバー]]の著書[[プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神|『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』]]がヒントになるだろう。日本において近代国家を建設するには国家神道が不可欠だったという説もある。-->
[[政教分離]]に基づく[[信教の自由]]は近代的国家を樹立する上で必要とされた為、[[大日本帝国憲法]]下でも認められ、[[仏教]]やキリスト教は活動を認められていた。しかし、[[大日本帝国憲法]]で人権の保障が「安寧秩序を妨げず及臣民たるの義務に背かざる限に於て」と規定されていたように、その活動は必ずしも無制約ではなかった。神社への崇敬は宗教的な信仰とは別種の[[臣民]]の義務とされ、他宗教の礼拝を否定する一神教のキリスト教徒や、神祇不拝を唱える[[浄土真宗]]門徒も、神道儀礼への不参加の自由は存在しなかった。
 
神道の宗教としての側面を維持しようとする教団は公認された一部のものが[[教派神道]]として分離され、神社に於いて祭祀としての側面のみを有するものが国家神道とされた。それ故、「神道」と名付けられてはいるものの、その実態は日本式[[唯一神教]](唯一絶対の[[権威]]を戴いた宗教)という事も可能である。何故、そのような実態になったのかは[[マックス・ヴェーバー]]の著書[[プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神|『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』]]がヒントになるだろう。日本において近代国家を建設するには国家神道が不可欠だったという説もある。
 
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