「パークナム事件」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
あなん (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
 
「メコン川東岸25キロ以内における」何? 記述を求む
2行目:
 
==経緯==
[[19世紀]]後半、[[インドシナ]]への進出を画策していたフランスは、同時期にビルマ側から[[タイ北部]]地方へ進出を試みていた[[イギリス]]に遅れを取らぬように、ベトナム領から当時のタイ領[[ラオス]]への進出を試みた。[[1886年]][[5月7日]]にフランスは鉱山業・林業における優先権を確立するため[[ルアンパバーン]]に領事館を設置、当時ラオスを領有していたタイとの間で'''ルアンパバーン条約'''を締結した。翌年、[[西双版納]](シップソーンパンナー)にいて[[ホー族]]の反乱が起きたため、フランスはルアンパバーン領内に兵を進め[[1888年]]に[[シップソーンチュタイ]](中心地は[[ィエンビエンフー]])を掌握した。この後フランスは、「ルアンパバーン地域の宗主権はベトナムにあり、ベトナム領を有する[[仏領インドシナ]]がルアンパバーンの宗主権を持っている」という立場を理由にして、タイ軍の駆逐をはかったため、タイ軍との衝突が起こり、インドシナに軍事的緊張が走った。
 
[[1892年]]、[[オーギュスト・パヴィ]]がルアンパバーン領事に任命されると、以前からタイ政府が提案していた交渉による国境画定案を拒否し、タイ軍にルアンパバーン領からの撤退を求めた。これにより、タイ政府およびフランスとの間で扮装紛争が勃発した。ラオス中部の[[カムムアン県]]の知事であった[[プラ・ヨートムアンクワーン]]がフランス軍と衝突、結果フランス人将校が戦死した。これを機にパークナム危機が勃発することになる。
 
プラ・ヨートムアンクワーンは結局フランス兵に捕らえられ、国境画定案を無視したことのあるフランスは「平和交渉時に将校を殺した」という理由で有罪判決がなされた。このため、「タイは国際常識を無視した」とう見方がフランス国内で広がり、タイへの武力行使を行おうとする世論が高まった。
 
==事件==
[[Image:Art_of_Paknam_incident.jpg|250px|thumb|パークナムでの紛争の様子。(ジョセフ・ナッシュ画:『The Graphic』[[1893年]][[8月26日]]号掲載)]]
[[1893年]][[7月13日]]夕方、フランス海軍は2隻の戦艦をからチャオプラヤー川の河口から上流へ進入しようとした。フランス海軍はこのときタイの官警から警告を受けたが無視した。現在の[[サムットプラーカーン郡]](河口にあるため俗に、パークナム(河口)と呼ばれる)へまで進むとタイ軍は備え付けの大砲と軍艦で攻撃したが近代的軍備のフランス海軍戦艦には歯が立たなかった。一方、軍艦2隻は10時頃までに[[バンコク]]、チャオプラヤー川東岸にある[[フランス大使館 (バンコク)|フランス大使館]]へ着くとタイ政府に「メコン川東岸のフランスへの割譲」を求めた。これは国家存続を揺るがす大きな問題となり、当時のタイの君主であった[[ラーマ5世]](チュラーロンコーン)は割譲を拒み賠償金で済ませようとした。ラーマ5世はフランスと対立関係にあったイギリスから賠償金を借りようと試みたが失敗。結局、メコン川西岸全域を割譲する事になったが、ラーマ5世はこれを「死刑を待つ死刑囚の様な悲しみ」と表現し寝込んでしまった。一方バンコク都民はこの異常事態において混乱を極め、フランス軍の発砲を恐れて逃げ回った。
 
==その後==
22行目:
*[[保護民]]を含む自由貿易を容認し、タイの司法権の管轄外とすること
 
を認めさせた。一方でフランスは[[チャンタブリー県]]、[[トラート県]]の港の占領を行っている。またフランス大使館はこの後、仏領インドシナのベトナム人、ラオス人、カンボジア人のみでなく、タイ国民(特に[[タイの華僑|華僑]])にまでワイロで保護民の地位を与えたためにタイの治安は大きく乱れることになった。
 
これに頭を痛めたタイ政府は[[1904年]]に新たな条約を結んだ。内容は以下の通りである。
 
*タイが[[サイニャブリー県]]および[[チャンパーサック県]]を割譲する代わりにチャンタブリー県からフランス海軍を撤退させるためにすること。
*保護民の登録を制限すること。
 
これにより目下の問題は解決したが、[[1905年]][[1月22日]]にフランス海軍はチャンタブリー県から撤退したがトラート県に移動したするのみに留まった。
 
==影響==
この事件の後敏感に反応したのはインドシナ進出を狙っていたイギリスであった。フランスが破竹の勢いでタイに迫りイギリスの領域を侵しかねない状況であったからである。[[1896年]]イギリス・フランス両国は'''英仏宣言'''を発表した。この宣言では、タイはイギリス・フランス両国の緩衝地帯として残すことが定められた。また、[[1904年]]には英仏協商が成立。イギリスはチャオプラヤー川東岸を、フランスはチャオプラヤー川の西岸を勢力の限界と定めた。
 
一方、床に臥した[[ラーマ5世]]は賠償金を貸してくれなかったイギリス・武力行使を行ったフランスに不信感を募らせ、今までのような両国との関係を重視していた外交政策を転換し、[[ロシア]]、[[ドイツ]]、[[日本]]などとの外交に重点を置いて外交多角化を図った。
 
==関連項目==