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'''古方派'''(こほうは)は、[[江戸時代]]前期、[[徳川綱吉]]のころ、名古屋玄医]]が提唱した[[漢方薬術]]の一派である。'''古医方派'''(こいほうは)ともいう。当時主流になっていた、金元医学と呼ばれる[[唐]]・[[宋 (王朝)|宋]]以降に編纂された書物による薬術が、あまりにも理論的・瞑想的になり、治療の実践・実証から乖離していることに鑑み、薬はすべて、[[後漢]]末(2世紀末から3世紀初め)に書かれた[[傷寒論]]・[[金要略]]に依るべしとした。
 
[[後藤坤山]]がこれを継ぎ、[[徳川吉宗]]・[[徳川家重|家重]]の時代に[[吉益東洞]]が類聚方などを表して確立した。幕末には、[[尾臺榕堂]]が優れた医家として知られている。
 
傷寒論・金要略の薬方は、使われる生薬の種類が二百数十種と少ないほか、一つの処方に配合される薬味も、4種から8種くらいである。後世の薬方に比べると、発汗・吐瀉・下痢などの激しい反応を起こすことがよくあるが、吉益はこうした「めんけん(冥呟)」とよばれる現象をかえって歓迎し、治療の実績を上げた。
 
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