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[[画像:San Lorenzo.jpg|300px|thumb|サンロレンソの戦い]]
[[画像:Convento_de_san_carlos_borromeo.jpg|right|300px|thumb|戦いの舞台となったサン・カルロス・ボロメオ修道院]]
'''サンロレンソの戦い'''(さんろれんそのたたかい 西:Combate de San Lorenzo)とは[[1813年]][[2月3日]]、[[サンロレンソ (サンタフェ州)|サンロレンソ]]で[[ホセ・デ・サン=マルティン]]の指揮する[[リオ・デ・ラプラタ諸州連合]]軍の騎兵隊が、ホセ・サバラの指揮するスペイン王党派軍を撃破し
連合軍は修道院の背後に布陣しており、[[礼拝堂]]から王党派軍の到着を確認したところで戦闘開始の命令が下された。食糧調達を目的として上陸した王党派軍は、戦闘準備が整っておらず、船から[[大砲]]による援護を受けたものの、150名の連合軍に15分で敗れて撤退する結果となった。サン=マルティンの報告によると、王党派軍は40名が戦死し、少なくとも12名が負傷、14名が捕虜となった。これに対し、連合軍は26名を失っている。
この戦いの最中に、サン=マルティンは
==サンロレンソの行進曲==
[[1901年]]に軍楽隊の指揮者[[カイェターノ・アルベルト・シルバ]](1868–1920)によって'''サンロレンソの行進曲'''(Marcha de San Lorenzo)が作曲された。この曲は
==戦跡==
サンロレンソの戦いの戦跡は、ロサリオ都市圏の4つの都市の名前となって残っている。
* [[プエルト・ゼネラル・サン=マルティン]](勝利を収めた司令官の名を街につけるのは、アルゼンチンでよく見られる習慣)
* [[フレイ・ルイス・ベルトラン]](負傷者の手当てを行った修道院の修道士にちなむ)
* [[カピタン・ベルムデス]](連合軍の[[大尉]]にちなむ)
* [[グラナデオ・バイゴッリア]]([[擲弾兵]]隊の兵士の名にちなむ)
また、ロサリオの最も古い市域にある通りには、カラブル軍曹にちなんでファン・バウティスタ・カブラル通りという名がつけられている。ロサリオの目抜き通りのひとつはサン・マルティン通りと名づけられており、上記4都市のすべてにも同じ名前の通りがある。
サンカルロス修道院は、戦死した兵士の遺体を骨壷に収め保管している。修道院はサンロレンソの戦いに関する歴史博物館を併設しているほか、サン=マルティンが使用した小部屋を見学することができる。修道院の前面には、記念碑のある公園があり、建物の裏手には、サン=マルティンが身を隠しながら戦闘前の打ち合わせを行ったという古木がある。
==外部リンク==
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* [http://pachami.com/SanMartin21.htm ホセ・デ・サン=マルティンの伝記]([[スペイン語]])
[[es:Combate de San Lorenzo]]▼
[[en:Battle_of_San_Lorenzo]]▼
▲[[Category:アルゼンチンの歴史|はらくあいせんそう]]
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▲[[es:Combate de San Lorenzo]]
▲[[en:Battle_of_San_Lorenzo]]
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