「務臺光雄」の版間の差分

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===長嶋茂雄を解任===
[[1969年]]10月、読売の総帥・正力が死去。7ヵ月後の[[1970年]]5月、務臺は読売新聞社社長に就任し、正力の嫡男・[[正力亨|亨]]はこれまで務めていた[[読売ジャイアンツ|読売巨人軍]]オーナーに加え読売新聞社社主となった。社主といっても所詮お飾りに過ぎず、務臺は名実と共に読売の最高実力者となったのである。[[1974年]]、9連覇を達成した[[川上哲治]]が巨人の監督を勇退し、現役引退したばかりの[[長嶋茂雄]]が新監督に就任。6年間で2度のリーグ優勝を果たしたが、[[阪急ブレーブス]]に阻まれ日本一にはなれなかった。しかも[[1978年]]から[[1980年]]までの3年連続V逸に加え、務臺が[[入院]]中で不在時に亨が引き起こしたいわゆる'''[[江川事件|「空白の1日」事件]]'''などもあり、務臺は亨や長嶋への不信感を募らせていった。特に入院中で不在時に起こった「空白の1日」事件は、「巨人軍は読売の巨人軍じゃない。大衆の巨人軍だ」と常々言ってきた務臺にとって大きな衝撃を与えだったようであり、亨への怒りは頂点に達した[http://www.shinchosha.co.jp/books/html/354020.html]。そして堪忍袋の緒が切れた[[1980年]]10月、長嶋を成績不振を理由に解任し、川上の推薦で[[藤田元司]]を後任監督に据えた。しかし、この決断は多くの長嶋ファンからの反発を招くこととなり、それが原因で読売新聞の販売部数を減らしたといわれる。務臺の長嶋への不信感は終生変わることはなく、長嶋の巨人復帰は務臺が存命中は[[タブー]]であった。
 
===晩年===