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== エピソード ==
 
*モスクワオリンピック開催直前当時、プロのスプリントの王者は[[中野浩一]]で、くしくも長と同じく1955年生まれ。
 
*中野の[[世界自転車選手権]]10連覇は[[ステートアマチュア]]と言われた[[東欧]]勢が参加できないことによるところが大きいといわれているが、当時の自転車関係者の間では、中野の敵はもっと身近なところにいると言われたのが長であり、仮に長がモントリオールオリンピック後に競輪界入りしていたならば、中野の連覇記録は10も行っていないだろうという声が一部にある。
 
*長は中野と同じく、「ナガサワ」のフレームを使用していた。
 
*長が辞退した競輪学校第41期には、後に中野、[[滝澤正光]]と並び競輪界の三強を形成することになる[[井上茂徳]]がいた。
 
*年齢制限にひっかかるからといって、日本アマチュア界の第一人者をどうして競輪界は受け入れてやらないのかという声も一部にはあったが、当時の競輪界は半ば聞く耳を持たずの状態で、長の一件があった以降も競輪学校の受験資格条件は変えられることがなかった。ところが、[[清水宏保]]が後に長野オリンピック後に競輪界入りを希望しながらも年齢制限にひっかかり(当時24歳)、受験さえできなかったことが分かって漸く競輪界は受験資格の一部変更に踏み切り、また93期以降より、競輪学校の受験資格に年齢の上限制限はなくなった。
 
*長は現役引退後、島野工業の一社員として当時の社長であった[[島野尚三]]の命を受け、ブレーキ部分にシフトレバーを組み込む(デュアルコントロールレバー)開発に携わるなどして、「世界のシマノ」ブランドの形成の一翼を担った。
 
*現在は[[和歌山県]][[田辺市]]で自営。
 
== 長を紹介した書物など ==