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'''鄭夢周'''(ていむしゅう、<font lang="ko">&#51221;&#47805;&#51452;</font>(チョンモンジュ)、[[1337年]] - [[1392年]])は、[[高麗]]末の[[儒学者]]である。号は圃隠。
 
[[慶尚北道]]の生まれ。[[朱子学]]を学び、[[科挙]]に主席で及第した。高麗末の内憂外患の中、[[軍人]]の[[李成桂]](のちの李氏朝鮮王朝太祖)らとともに[[女真]]や[[倭寇]](前期倭寇)の征伐に参加し、功績を立てる。[[1377年]]には日本に赴き、室町幕府の[[九州探題]]である[[今川貞世]](了俊)と折衝にあたる。倭寇禁圧を約束させ、高麗人の解放を果たしたが、その人物と詩文が日本人の尊敬を集めたといわれている。[[1388年]]、李成桂が[[クーデター]]を起こし政権を掌握すると、彼とともに新王の[[恭譲王]]を支えたが、禅譲を受けて[[李氏朝鮮|朝鮮王朝]]を開こうとする李成桂と対立したため、李成桂の子[[李芳遠]](のちの太宗)の手により暗殺された。
 
鄭夢周は教育にも力を注いで多くの弟子を育成したので、のちに「東方理学之祖」と称えられた。