「ゲオルク・フリードリヒ (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)」の版間の差分

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'''ゲオルク・フリードリヒ'''('''Georg Fiedrich'''、[[1539年]][[4月5日]] - [[1603年]][[4月25日]])は、[[ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯]]ならびに[[ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯]]で、同時に[[プロイセン公]]領の後見人であり、公であった人物。
 
== 生涯 ==
ゲオルク・フリードリヒはアンスバッハ辺境伯[[ゲオルク (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)|ゲオルク]]敬虔伯の一人息子で、幼くして父親を亡くした後は、母親の周到な教育を受けて育った。ゲオルク・フリードリヒは、[[1556年]]に父親のシュレジエン地方の所領(イェーゲルンドルフ公(現[[チェコ]]、[[クルノフ]])、ボイテン(現[[ポーランド]]、[[ビトム]]およびオーダーベルク(現チェコ、[[ボフミン]]の領主)にも封ぜられ、執務を行うようになった。
 
[[1557年]]に[[アルブレヒト・アルキビアデス]]のクルムバッハ家系が断絶した後は、クルムバッハ辺境伯をも兼ねた。また、プロイセンにおける最後のフランケン系[[ホーエンツォレルン家]]の領主アルブレヒト・フリードリヒの鬱病が進行し衰弱したため、最も近い親族であるゲオルク・フリードリヒが[[1577年]]、病の領主の後見役に就いた。[[1578年]]には、当時プロイセンの上位統治者であった[[ポーランド王国|ポーランド王]][[ステファン・バートリ (ポーランド王)|ステファン・バートリ]]は、彼をプロイセン公に封じている。