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大乗における純陀の立場に就いて追加
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37行目:
と宣言した。
 
==大乗教典涅槃経における後段の加筆==
初期典における純陀の登場部はほぼ前述の部位までであるが、大乗仏教における典では、前記アーナンダを諭した内容を直接純陀に説く場面があり、概ね下記のような内容で加筆・訂正されている(平民である純陀の存在が弟子達と同類として説かれることにより大乗教典解釈を裏付ける形になっているほか、教団を誹謗する者に対して厳然とした態度を取るよう主張する場面があるが、更に後年の解釈ではそれも緩和される)。
 
:よいか純陀よ、お前はこの大勢の中から仏の最期の供養者に選ばれたのだ。これは大変なことであり極めて成し難いことを遂げたのだ。スジャータとお前の供養はまさに始まりと終わりの供養であり、私が受けた供養の中でも最も重要なものなのだ。お前は人間の体であっても心は仏になったのだ。だから私が入滅しても悲しんではならない。誰もが成し得ないことをやってのけたのだ」と諭している。
 
:その後純陀は釈迦に、「施しをすることは本当に尊いことが分かりましたが、では尊者ではなく、あらゆる人々にもしていくべきでしょうか?」と尋ねたところ、釈迦は純陀に対し、施しをする相手について一つだけ条件を付けている。<br> 「世の中にはただ一種類だけ、施してはならない者がいる。それは[[一闡堤]](いちせんだい)と言い、殺人や盗み、姦淫、嘘などの重罪を犯しながらこれを恥じず、教えや人道を汚し、あざけり、どれほど多くの人を傷つけでも決して顧みず自分勝手な解釈を決して曲げず、忠告されても決して改めず、世の中の全てを汚すような行いをする者のことである」とした。
:この敵対思想排斥の概念は、全てが救われるべき後年の大乗典においては異端となるため、「施してならないのは、完全なる一闡提に限定されそこに至らない悪人は含まれない。」又は「施しをしてはならないのはその人間ではなく、その行為に対してである」とし、結果的に「一切悉有仏性すなわち一切の者は仏性を持っている」の精神を損なうものではなく、大乗の大般涅槃経の後半において、最終的に[[一闡堤]]も成仏が可能であるという解釈結論達し至った。
 
== 純陀と文殊の問答 ==