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[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]までの伊佐城については記録がなく、その詳細は不明。同城のあった[[常陸国]][[伊佐郡 (常陸国)|伊佐郡]]は、平安時代末期から鎌倉時代初期まで、[[伊佐氏 (常陸国)|伊佐氏]]の領地であった。
 
南北朝の争乱が常陸国に及ぶと、城主の[[伊佐氏 (常陸国)|伊佐氏]]<ref>伊佐太郎との説あり。</ref>が同族の[[伊達行朝]]<ref>観音寺境内に[[伊達行朝]]の供養塔(筑西市指定文化財 伊達行朝廟)がある</ref>を迎え、南朝方の[[北畠親房]]が拠る[[小田城]]<ref>[[北畠親房]]は、小田城籠城中に『[[神皇正統記]]』を執筆、[[関城]]で完成させている。</ref>に呼応。[[大宝城]]、[[関城]]など南朝方諸城とともに戦う。北朝方[[高師冬]]軍の攻撃に長く絶えたが、[[興国]]4年(1343年)についに落城、以後廃城となる。
 
== 脚注 ==