「間テクスト性」の版間の差分

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==間テクスト性とポスト構造主義==
クリステヴァの作った「間テクスト性」の意味するところは、[[ソシュール]]の構造主義的記号論([[記号]]がテクスト構造の中でどんな意味をもたらすかという研究)と[[バフチン]]の[[対話主義]](各テクスト(特に小説)や語における多義或いは「ヘテログロシア」の検討)とを統合する試みである。クリステヴァによれば、もしも作家から読者へ直接意味が伝わるのではなく、代わりに他のテクストによって伝えられる「コード」が介在したりフィルターがかかったりするのであれば、間テクスト性の概念は[[間主体性]]の概念に取って代わるという。例えば、我々が[[ジェイムズ・ジョイス]]の『[[ユリシーズ]]』を読むとき、我々は近代人の文学的実験として、或いは壮大な伝統への反応として、或いは他の談話の一部として、或いはこれら全ての談話の一部分として、これらを同時に解読する。この間テクスト的な文学の見方は、[[ロラン・バルト]]が指摘したように、芸術作品の意味は作品にあるのではなく、鑑賞者にあるのだという観点を補強するものである。
 
最近のポスト構造主義者の理論、例えばダニエラ・カセッリの『ベケットのダンテ』では、間テクスト性を異なるテクストの間の一連の関係というより、テクスト内で生み出されるものとして再検討されている。またポストモダン理論家には間テクスト性とハイパーテクスト性との関係について論じたがる者もいる。即ち、間テクスト性によってテクストそれぞれは「引用のモザイク」(クリステヴァ)やより大きなモザイクの一部になっており、ちょうど[[ハイパーテキスト|ハイパーテクスト]]それぞれが[[ハイパーリンク|リンク]]の網の目や全体の一部になっているのと同様であるという。
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==間テクスト性の実例と歴史==
間テクスト性の理論的な観点が[[ポストモダン]]と関係がある限り、その装置そのものは新しいものではない。[[新約聖書]]の一節は[[旧約聖書]]を引いており、旧約聖書の[[申命記]]や[[預言者]]は[[出エジプト記]]に記された出来事を参照している(Porter1997)。
編集批評家は問題の本の原作者の特定の順序と過程を論じるために間テクスト性を使うのに対して、[[文芸批評]]は最終形態のテキスト、つまり相互に関連した文学の塊として扱う共時的な見方をとる。この塊は後代に聖書物語を参照する詩や絵に拡大し、ちょうどギリシャ・ローマの古典的な物語や神話の周囲に他のテクストがネットワークを構築するのと同様である。[[トマス・ブルフィンチ|ブルフィンチ]]も『ギリシア・ローマ神話』(''The Age Of Fable'') の中で論じている。<!--略-->
 
時に間テクスト性は[[盗作]]として扱われることがある。スペインの作家 Lucía Etxebarria の詩集『''Estación de infierno''』にAntonio Colinasの隠喩と一節が含まれていることがわかった。これに対してEtxebarriaはColinasへのオマージュと間テクスト性を主張した。