「ロシア四重奏曲」の版間の差分

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'''ロシア四重奏曲 Op.33'''(全6曲)は、[[フランツ・ヨーゼフ・ハイドン]]の作曲した[[弦楽四重奏曲]]集である。
 
弦楽四重奏は、この6曲で、古典的な完成を果たしたというのが定説であり、この曲の完成度の高さに感銘を受けた[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]は、2年あまりをかけて[[ハイドン・セット]]と呼ばれる力作6曲(第14-19番)をハイドンに献呈している。[[古典派]]以降の多くの弦楽四重奏曲の源流がこの6曲にあるという点で、音楽史的にも重要な作品である。
 
*作曲:[[1781年]]
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*編成:[[ヴァイオリン]]2、[[ヴィオラ]]1、[[チェロ]]1
 
==[[ニックネーム]]の由来==
これら6曲は、[[アルタリア社]]から出版された第2版に、「ロシア大公に献呈」と記されたことから、「ロシア四重奏曲」の呼び名で呼ばれている。このロシア大公とは、のち[[1796年]]に[[ロシア皇帝]]となった[[パーヴェル1世 (ロシア皇帝)|パーヴェル・ペトロヴィッチ]]のことである。ハイドンはこの曲を作曲した[[1781年]]に、[[ウィーン]]を訪れたペトロヴィッチ大公夫妻に会っており、その際婦人に数回音楽を教えているほか、婦人の部屋ではハイドン主宰の音楽会が開かれている。その音楽会ではこの「ロシア四重奏曲」op.33のうちの1曲が演奏されたと言われている。
 
==作曲の背景==
ハイドンは、この曲を書くのに先立って[[1772年]]に、6曲からなる弦楽四重奏曲集「[[太陽四重奏曲]]」op.20を作曲しているが、その後、この「ロシア四重奏曲」を書くまで、10年近く弦楽四重奏曲を作曲していない。「太陽四重奏曲」は、[[対位法]]によって、強固に凝縮された構造を持ち、それまで[[ディヴェルティメント]]の一種でしかなかった弦楽四重奏に新たな芸術的価値を付与することを目指したものだったが、弦楽四重奏という新しい形式に、[[バロック]]時代の旧式な[[対位法]]形式を持ち込んで価値を高めるという手法に、斬新なハイドンは不満だったからである。また、このような手法により「太陽四重奏曲」はあまりに肩肘の張りすぎたものになり、ハイドンは手詰まりの状態にあったといえる。
 
時の移るままに放置されていた弦楽四重奏という形式は、10年近い歳月を経て着手されたこの「ロシア四重奏曲」で、よりくつろいだものに洗練され完成されることになる。中には、[[弦楽四重奏曲第38番 (ハイドン)|第38番『冗談』]]のように独特なユーモアを持つものさえある。出版前にハイドンは書簡の中で「全く新しい特別な方法で作曲された」とアピールしており、確かにかつて以上に磨かれた形式美や端正さを持つこと、また全て従来の[[メヌエット]]楽章に代わり[[スケルツォ]]をおく手法など、新しい方向性が取り入れられている。