「口分田」の版間の差分
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→前史(北魏~隋の露田): 「興味深いことに」という執筆者の主観丸出しの言い回しを削除。 |
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均田制は北魏で始まった。均田制は、民衆へ一律に田地を支給する代わりに、[[納税]]と[[軍役]]を義務づけることを目的としていた。
北魏では、15歳以上の男子に露田(耕田)40畝(約1.87[[ヘクタール]])と麻田10畝(約0.47ヘクタール)を、女子には同じく20畝(約0.93ヘクタール)と麻田5畝(約0.23ヘクタール)を支給し、59歳になったときに返すとされていた。これが後代の口分田の始源だったと考えられる。また男子はこれとは別に20畝の桑田を与えられ、これは世襲できるとされた。こちらが後の永業田の資源と考えられ
北魏から分裂した[[北斉]]に於いて初めて口分田の用語が登場するようになり、それを引き継いだ[[隋]]も均田制を採用した。隋の均田制では、男子に露田80畝と世業田20畝を支給することとされていた(夫人・奴婢・牛への支給は廃止されている)。露田は時期が来たら収公されたが、世業田は子孫代々所有することが許された。
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