「霊友会」の版間の差分

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Hsgch (会話 | 投稿記録)
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霊友会の修行では、自分に繋がる父系・母系双系のすべての先祖との関係性と、日常生活において触れ合うすべての他者との関係性の中に、これまでの自分のあり方が反映されている事を認識し、それらについて内省して自身のあり方の問題点に気付き、その気付きを基に日常の行動パターンを変革していく事が重視される。
 
具体的には、自分に繋がる父系・母系双系のすべての先祖を象徴した「総戒名」と呼ばれる、一種の時間軸でのにおける関係性の象徴を前にして、日々、「青経巻」と呼ばれる、法華三部経からの抜粋を中心に編纂された経巻を読誦する。これを霊友会では「先祖供養」と呼んでいるが、これは、旧来の男系中心の家制度に基づく儒教的な影響を受けた日本の伝統的先祖供養とは発想を異にするもので、上述したとおり、自分という存在を縁起観で捕らえ直す純仏教的な修行の一環として位置づけられるものである。しかしながら、この「先祖供養」という用語により、会の外部はもちろん、霊友会の会員自体の中にも大きな誤解が生じ、それが霊友会の本来の趣旨が正確に伝わらなかった大きな要因になったことは否定できない
 
しかしながら、この「先祖供養」という用語により、会の外部はもちろん、霊友会の会員自体の中にも大きな誤解が生じ、それが霊友会の本来の趣旨が正確に伝わらなかった大きな要因になったことは否定できない。
本来の霊友会の趣旨では、先祖は決して祟るものでも依存する対象でもなく、父系母系双系のすべての先祖との関係性はDNAの例を見ても分かるとおり、現在の自分自身の中に集約されており、それら先祖の象徴である「総戒名」を前にして法華経を読誦すると言う行為は、広い意味での自分自身の象徴の前で、自身に対して経を聞かせるのと同義なのであった。と同時に、先祖を他者として考える場合、先祖一人一人も仏道に導かれるべき衆生であり、自ら読誦する法華経を彼らに聞いてもらうことによって、仏道に目覚めてもらうことが意図されており、いわゆる菩薩行の一環と位置づけられるもなのである。
 
本来の霊友会の趣旨では、先祖は決して祟るものでも依存する対象でもなく、父系母系双系のすべての先祖との関係性はDNAの例を見ても分かるとおり、現在の自分自身の中に集約されており、それら先祖の象徴である「総戒名」を前にして法華経を読誦すると言う行為は、広い意味での自分自身の象徴の前で、自身に対して経を聞かせるのと同義なのであった。と同時に、先祖を他者として考える場合、先祖一人一人も仏道に導かれるべき衆生であり、自ら読誦する法華経を彼らに聞いてもらうことによって、仏道に目覚めてもらうことが意図されており、いわゆる菩薩行の一環と位置づけられるものである。
また、上述のように、日常生活において日々触れ合う他者との関係性においても、自己のあり方が反映されていることを認識し、そこから学び反省し自らの行動を変革する事によって、それらの関係性をよりよいものにしていくことが重視される。霊友会における、経の読誦はそのような内省と「気付き」の為の時間としても機能しているのである。
また、そのような自らの「気付き」と変革の努力の成果を、他者とも分かち合う事によって、他者にも、それぞれの「気付き」を誘発し、それが彼らに関係する
 
また、上述のような菩薩行としての「先祖供養」加え、上述したとおり、日常生活において日々触れ合う他者との関係性においても、自己のあり方が反映されていることを認識し、そこから学び反省し自らの行動を変革する事によって、それらの関係性をよりよいものにしていくことが重視期待される。霊友会における、経の読誦はそのような内省と「気付き」の為の時間としても機能してい重視されるのである。
他者の「気付き」を誘発するという「悟りの連鎖」の輪が広がることが、期待される。
 
また、そのような自らの「気付き」と変革の努力の成果を、他者とも分かち合う事によって、他者にも、それぞれの「気付き」を誘発し、それが彼らに関係する他者の「気付き」を誘発するという「悟りの連鎖」の輪が広がることが、期待される。
このように、霊友会の修行は、自らの悟りと他者の悟りを同時に希求するという正に「菩薩行」そのものであり、先祖の供養も含めてすべて菩薩行の一環であることがわかる。
 
このように、霊友会の修行は、自らの悟りと他者の悟りを同時に希求するという正に法華経が唱導した「菩薩行」そのを実現するものであり、先祖の供養も含めてすべての活動が菩薩行の一環であるがわかされている。
 
==分裂・分派発生と解釈の多様性の要因==