「長尾邦景」の版間の差分

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やがて、憲実と持氏の対立の悪化によって[[永享の乱]]・[[結城合戦]]が相次いで勃発すると、邦景は憲実に援軍を派遣する。特に後者では[[結城氏]]討伐の命を受けた守護・上杉清方に嫡男・長尾実景及び[[色部重長]]ら有力国人を補佐として付けて出陣させ、結城合戦における越後上杉軍の活躍に寄与し、邦景父子は将軍義教から功績を賞賛された。
 
ところが、清方の死後後を継いだ[[上杉房定]]は、宝徳2年([[1450年]])に本拠を[[京都]]から越後本国に移して邦景を抑えようと図り、邦景と対立する。折りしも房定は他の上杉一族の意向を無視して持氏の子・[[足利永寿王丸|永寿王丸]](後の[[足利成氏]])を次期関東管領に擁立しようと図った。これに対して邦景は持氏の遺児である永寿王丸は、自分の父を滅ぼした上杉一族を恨んでおり、これを復権させることは憲実をはじめとする関東の上杉氏一族を危険に晒す事になると諫言した。だが、これを山内上杉家の力を背景として主君の自分を軽んじているとみた房定は11月12日の邦景を捕らえて[[切腹]]を命じたのである。
 
[[信濃国]]に追われた実景は反乱を起こしたものの攻め滅ぼされ、守護代の地位は庶流の[[長尾頼景]](邦景の甥)に移った。だが邦景の危惧は不幸にも的中し、房定の後ろ盾で鎌倉公方に就任した足利成氏は、関東管領[[上杉憲忠]](憲実の子)を「父の仇」として殺害して上杉氏討伐の兵を起こして房定らを攻め、長く続く[[享徳の乱]]を引き起こすことになったのである。