「尾上菊五郎 (3代目)」の版間の差分

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[[市川團十郎 (初代)|初代市川團十郎]]以来続いてきた江戸歌舞伎の型を整理した名優とされる。「どうして俺はこんなにいい男なんだろう」と楽屋で自身の顔を鏡に映しながらつぶやいたほどの美貌で、それに演技力に優れ創意工夫を絶えず忘れない努力家でもあった。多くの怪談狂言では作者の鶴屋南北や道具方の[[長谷川勘兵衛 (11代目)|11代目長谷川勘兵衛]]や鬘師友九郎、衣装方などスタッフと協力して次々と新機軸を生み出していった。幽霊や妖怪から一転して美男美女に早変わりをするうまさは観客を喜ばせた。役柄も広く'''「立役、女形、老人、若衆形、立敵から三枚目まで、そのままの姿で替ります。」(「役者外題撰」天保10年)'''と評され、「兼ネル」の称号を与えられている。
 
『東海道四谷怪談』は文政8(1825)年7月の江戸中村座の初演でお岩、小平、与茂七三役早変わりを演じて以来当たり役となり、生涯に九度演じた。お岩を演じた際、メーキャップを怖がらない弟子がいると、舞台裏の奈落でいきなり現れておどかした。'''「師匠びっくりするじゃありませんか。」'''と弟子が言うと'''「幽霊は怖がらせておいて舞台に出ないといけねえから、こうしたんだ。」'''と言って弟子に駄賃をあげたり、吹き替えのお岩を演じる弟子に'''「お岩の死体だって恨みがこもっているんだから、ただ寝ているだけじゃあいけねえ。こぶしを握るとか足を曲げるとか工夫をしろ。」'''とアドバイスするなどの挿話が残っている。尾上家十八番の怪談劇を演じる第一人者として、'''「お化けを演じるのは気楽に、幽霊を演じる時は気を重くする。」'''という言葉も残している。
 
江戸風のすっきりした芸風で、「忠臣蔵・六段目」の勘平の現行の型は3代目によって完成されられたものといわれている。「お祭り佐七」を演じた時は舞台の行灯が暗すぎるのと本人の視力の衰え、さらに科白を暗記していなかったので手紙が読めず、腹を立てて行燈を包丁で壊したのが評判となって孫の[[尾上菊五郎 (5代目)|5代目菊五郎]]に伝わった。大阪に客演した時、「すし屋」の権太を、江戸式の洗練された型で演じた時、大和の村に江戸っ子はいないと批判されると、勘当されて江戸に流れ、すし職人となって江戸弁を覚えたとのアドリブを入れ、観客の評判となるなど臨機応変さも持ちあわせていた。また、草双紙の執筆を行うなど文才もあった。