「明帝 (北周)」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[548年]]、寧都郡公に封ぜられた。[[西魏]]の恭帝3年(556)に大将軍となり、隴西地方(現在の[[陝西省]])を守備、統治した。異母弟の[[宇文覚]]が皇帝(孝閔帝)に即位した際に[[柱国]]に任じられ、岐州[[刺史]]として善政を行なった。宇文覚が廃位されたとき、従兄の晋公[[宇文護]]は宇文毓を岐州に新皇帝として迎えようとした。しかし宇文毓は故郷にとどまり皇帝の地位を辞退、群臣たちの上表が行われ皇帝の乗り物である法駕を用意して迎えようとしたが宇文毓は更に固辞した。しかし群臣たちの重ねての要請を容れ、宇文毓は天王への即位を承諾、[[557年]]に大赦を行い、弟の大将軍輔城公宇文邕を柱国とした国家体制を整える。
 
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また周暦を作らせた。柱国、輔城公宇文邕を[[大司空]]に任じた。また、魏の時代の盗みや着服はその罪に問責しないことにしたが、追求するものがいて事実関係が明らかになった場合は、法に定めてあるようにそれ相応の補償をさせるように勅令を出した。賀蘭祥は、洮陽、洪和の二城を攻め落としたので、吐谷渾は、逃げ帰った。[[西域]]の高昌国([[トゥルファン]])国が使者を来朝させ、朝貢した。
 
激しい長雨があったので、公卿、[[卿]]、[[大夫]]、[[士]]のみならず、各地の牧、守、庶民にいたるまで、天子のみに直接挙げる上奏文、直言をするよう命じる勅令を出した。災害の様子を官吏を各地に派遣して掌握させた。そして、宇文泰が夏州に攻め込んで征服したときに戦死した遺族に金銭や絹を与えたように、この災害で、妻子を失ったものには同じように金銭や絹を与える勅令を出した。この年、天王を改めて皇帝を称し、父の文王宇文泰を文皇帝と追尊した。武成元年と改元した。
災害の様子を官吏を各地に派遣して掌握させた。そして、宇文泰が夏州に攻め込んで征服したときに戦死した遺族に金銭や絹を与えたように、この災害で、妻子を失ったものには同じように金銭や絹を与える勅令を出した。この年、天王を改めて皇帝を称し、父の文王宇文泰を文皇帝と追尊した。武成元年と改元した。
 
[[560年]]、突厥の使者をふたたび群臣とともに迎えた。
 
宇文護は、明帝が賢明で識見がある優れた君主であるのをおそれて、食事係の李安毒入りもちをすすめて毒殺しようとした。明帝はこれをさとったが、これを食べ、死の直前に、「生死は必然のことである。わたしは、不徳であったが、書物を読み、聖人、賢人たちの論議を開いてみることに勤めてきたが、いまだによくわからないところもあった。群臣一同よく父である太祖宇文泰のころからよく仕えてくれたことを感謝している。わたしは、在位4年になったが、まだ天下を統一できないことが残念である。皆で協力し合って太祖の遺志を為し遂げてほしい。それからわしの子供はまだ幼少で、国を治める任には堪えない。弟の魯国公の邕は、寛容で情け深く度量が大きい。わが周を大きくするのはこの子をおいてない、と太祖からお聞きしている。どうか邕をささえて天下人にしてほしい」として遺言し、27歳で亡くなった。
 
明帝は、心がひろくすがすがしい性格で、情け深く、度量が大きかった。親族を大切にし、弟の[[武帝 (北周)|宇文邕]]とは特に仲が良かった。幼いころから学問を好み、多くの書物を読んでいた。文章をよくし、詩文をつくらせても美しく優れていた。即位するに及んで、学者80人以上を集めて、書物に注をつけさせ、歴史書を刊行させたりした。多くの書物を集め、明帝自身も10巻の著作があった。
 
== 宗室 ==
=== 后妃 ===
*独孤皇后
=== ===
*[[宇文賢]] (畢王)
*[[宇文貞]] ({{lang|zh|酆|lang}}王)
*[[宇文實]] (宋王)
 
== 文献 ==
 
*李延寿編『[[北史]]』周本紀上第九
*[[司馬光]]編『[[資治通鑑]]』巻一百六十七陳紀一高祖武皇帝、巻一百六十八陳紀二世祖文皇帝
 
 
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