「毛利貞元」の版間の差分

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貞元の一族、[[因幡毛利氏]]は[[永享]]年間より[[幕府]][[奉公衆]]を代々務めた家柄で貞元自身も奉公衆を務めた。
 
[[文明_(日本)|文明]]11年([[1479年]])春、[[応仁の乱]]が長期化し、[[山名氏]]の統治にほころびが生じ始める中、貞元は[[若桜町|若桜]]の[[矢部氏]]ら国人衆を束ね「'''[[毛利次森二郎の乱]]'''」と呼ばれる大規模反乱を起こした。ほう起から半年程度は優位に戦いを進めていった貞元であるが、下向した惣領の[[山名政豊]]の軍勢には敵うことができず、翌文明12年の春頃には鎮圧された。
 
鎮圧後の貞元は奉公衆であったことが幸いし、助命された。加えて、厳罰に処せられた形跡もなく3年後の文明15年([[1483年]])[[3月8日 (旧暦)|3月8日]]には堂々と[[犬追物]]に参加している。この後も貞元は犬追物に参加しており、同年[[11月14日]]からは[[矢部宗春]]と共にその名が見える。(参考・「伊勢家書」)
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==関連項目==
*[[毛利次森二郎の乱]]
*[[矢部定利]]
*[[山名政実]]