「テレサ・テン」の版間の差分

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日本ではどちらかというと[[演歌]]歌手のイメージが強いが、実際はかなり幅広いジャンルの歌を歌っており、[[台湾]]や[[香港]]などで出されたアルバムには、演歌やムード歌謡に加えて[[台湾民謡]]や英語の[[ポップス]]、[[J-POP|日本語ポップス]]の[[カバー曲]]なども多数含まれている。外国語にも堪能であり、[[北京語]]に加えて[[台湾語]]、[[広東語]]、[[日本語]]、[[英語]]に堪能で、[[山東語]]、[[マレー語]]、[[フランス語]]などの言葉も話せたと言われる。日本でリリースされた曲は約260曲ほどであるが、中国語でリリースした曲は1000曲を越す。
 
[[1973年]]に[[香港]]で「日本の[[父]]さん」と呼ばれる舟木稔(のち[[トーラスレコード]]社長の舟木稔との出会いがきっかけで日本での活動を開始、[[ユニバーサルミュージック]](当時は「日本ポリドール」)と契約し、[[アイドル歌謡曲]]路線の『今夜かしら明日かしら』でデビューしたが、売れ行きが思わしくなかったため不発。[[演歌]]路線に変えたところ、日本でのデビュー2作目となる『空港』が大ヒット、[[日本レコード大賞]]新人賞を獲得する。しかし、[[1979年]]、日本入国の際に[[インドネシア]]の偽造[[パスポート]]を使用したことが発覚し、国外退去処分となる。その後[[米国]]で暮らし再来日を果たすまでは、香港を活動の拠点にしていた。中華圏のCDショップでは今でも、1982年~1984年頃の[[香港]]や[[台湾]]での公演の様子を収めた[[DVD]]がよく売られている。
 
[[1984年]]再来日。レコード会社を「[[トーラスレコード]]」に移籍、日本でリリースした『つぐない』、『愛人』がそれぞれ150万枚、『時の流れに身をまかせ』が200万枚を売る大ヒットとなる。[[1984年]]から[[1986年]]にかけ、[[日本有線大賞]]及び[[全日本有線放送大賞]]の東西有線大賞で史上初の3年連続大賞・グランプリを受賞した。[[1985年]]12月には、彼女のソロコンサートとしては最後となるが、最大規模の演出をこらした[[日本放送協会|NHK]]ホールコンサートが開催される。この時の歌唱は彼女のライブ公演の中でも最高の水準のものとして高い評価を得ている。
 
[[1987年]]、住居を香港に移すのと同時に、日本以外での歌手活動を殆ど休止するようになった。[[1990年]]以降はパリに居住。[[中華人民共和国]]の[[北京]]における[[天安門事件]]に対する反対集会にも参加し、亡命した民主化活動家とも交流を持った。[[1990年代]]に日本をはじめとする[[アジア]]各国で二回ほど彼女の死亡説が流れたりもした(一度目は[[1990年]]5~6月に父親の葬儀への欠席をきっかけに病死説が、二度目は翌[[1991年]]4~5月に病死説・暗殺説が流れている。死亡説に対してはそれを否定する本人のコメントが新聞記事などに取り上げられた)。1980年代後半以降のテレサは演歌・[[ムード歌謡]]というよりも[[J-POP]]寄りで、[[ASKA]]や[[桑田圭祐]]、[[ZARD]]の[[坂井泉水]]らの曲も歌っているため、必ずしも演歌歌手とはいえない部分が多い。日本での最後のテレビ出演は、[[1994年]]11月に放送された[[日本放送協会|NHK]]『歌謡チャリティーコンサート』([[仙台市]]にて公開録画)だった。