「テレサ・テン」の版間の差分

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[[1987年]]、住居を香港に移すのと同時に、日本以外での歌手活動を殆ど休止するようになった。[[1990年]]以降はパリに居住。[[中華人民共和国]]の[[北京]]における[[天安門事件]]に対する反対集会にも参加し、亡命した民主化活動家とも交流を持った。[[1990年代]]に日本をはじめとする[[アジア]]各国で二回ほど彼女の死亡説が流れたりもした(一度目は[[1990年]]5~6月に父親の葬儀への欠席をきっかけに病死説が、二度目は翌[[1991年]]4~5月に病死説・暗殺説が流れている。死亡説に対してはそれを否定する本人のコメントが新聞記事などに取り上げられた)。1980年代後半以降のテレサは演歌・[[ムード歌謡]]というよりも[[J-POP]]寄りで、[[ASKA]]や[[桑田圭祐]]、[[ZARD]]の[[坂井泉水]]らの曲も歌っているため、必ずしも演歌歌手とはいえない部分が多い。日本での最後のテレビ出演は、[[1994年]]11月に放送された[[日本放送協会|NHK]]『歌謡チャリティーコンサート』([[仙台市]]にて公開録画)だった。
 
[[1995年]][[5月8日]]、静養のためたびたび訪れていた[[タイ王国|タイ]]・[[チェンマイ]]のメイピンホテルで[[気管支喘息]]による発作のため死去。42歳の若さだった。[[1990年]]から同棲関係にあった14歳年下のフランス人、ステファン・ピュエールが最期を看取った。同月28日に[[台北]]で[[国葬]]級の葬儀が執り行われ、世界各国から3万人ものファンが詰め掛けた。彼女の棺は[[中華民国の国旗]]と[[中国国民党|国民党]]党旗で覆われ、[[台湾]]での国民的[[英雄]]ぶりがうかがえた。墓所は[[台北市]]の北東に位置する[[台北県]][[金山郷]]の[[金宝山]]にあり、小さな公園のように整備され、本名の一字を取って「筠園」と呼ばれている。墓前には銅像があり、彼女の歌声が絶えず流されている。没後10年目に当たる[[2005年]]5月8日には、日本をはじめとするアジア各国からファン300人ほどが墓所に詰めかけ、追悼集会を開いて生前のテレサ・テンを偲んだ。[[台湾]]での彼女はあまりにも偉大なので、遺体は火葬されず防腐加工などを施され土葬された。没後50年は生前の姿であり続ける。尚、台湾でこのような形で眠っているのは、[[蒋介石]]、[[蒋経国]]、[[テレサ・テン]]の三人だけである。
 
[[1995年]]の春にレコーディングする予定で作られた新曲「忘れないで - time to say good-bye -」は、死の直前の5月に完成したため、彼女に届けられることなく、幻の曲となっていたが、七回忌に当たる[[2001年]]に[[アグネス・チャン]]と[[北原ミレイ]]によって同時にレコーディングされ、追悼の意が表された。