「ヨハン・カスパール・ケルル」の版間の差分

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[[ザクセン公国]]アドルフ出身。青少年期については少しのことしか分かっていない。父カスパール・ケルルは、[[オルガン]]建造家ならびに地元のミヒャエル教会のオルガニストで、[[1626年]]にカタリーナ・ヘンデルと結婚した。おそらくケルルに音楽の手引きをしたのは父親であった。比類ない楽才を発揮してから、[[ウィーン]]の宮廷楽長[[ジョヴァンニ・ヴァレンティーニ]]に音楽を師事する機会が得られた。同地で宮廷オルガニストとして働きながら数年間の研修を経た後、[[ローマ]]に移り、[[ジャコモ・カリッシミ]]に入門した。ローマ滞在中の[[1648年]]から[[1649年]]ごろに、[[ヨハン・ヤーコプ・フローベルガー]]に師事した見込みが高いが、これを裏付ける確かな資料は発見されていない。
 
だいたい[[1646年]]から[[1647年]]ごろに、当時の[[南部ネーデルラント|スペイン領ネーデルラント]]の領主総督[[レオポルト・ヴィルヘルム・フォン・エスタータイヒ|レオポルト・ヴィルヘルム大公]]によって、[[ブリュッセル]]の居城における室内楽団のオルガニストに任命された。ケルルはいくつかの理由から、ブリュッセルをたびたび留守にしたが、失職せずに済んでいる。[[1648年]]にはカリッシミのもとで学んでおり、[[1649年]]から[[1650年]]までの冬は、フローベルガーとともに[[ドレスデン]]を訪れ、[[フェリペ4世 (スペイン王)|フェリペ4世]]とオーストリア皇女[[マリアナ・デ・アウストリア|マリア・アンナ]]の婚礼にも参列した。[[1651年]]にレオポルト・ヴィルヘルム大公にウィーンで復職するよう催促されたが、だが[[1652年]]になってウィーン入りし、しばらくゲットヴァイク(Göttweig)に過ごして[[モラヴィア]]を訪れた。
 
[[1656年]]にブリュッセルの宮廷が解散されると、同年2月に、[[バイエルン大公|バイエルン選帝侯]][[フェルディナント・マリア (バイエルン選帝侯)|フェルディナント・マリア]]のもとで[[ミュンヘン]]宮廷の副楽長職を受理。9月に宮廷楽長に昇進した。この新しい任務は、典礼用の宗教曲のほか、宮廷のための[[室内楽曲]]や[[オペラ]]の作曲も含まれていた。ミュンヘン滞在中の1657年に、アンナ・カタリナ・エガーマイヤーと結婚。8人の子供をもうけたが、音楽家の道に進んだのは一人だけだった。理由ははっきりしないが、[[1673年]]に退職する。他の宮廷楽師といさかいを起こしたとか、宮廷内で悪行を働いたなど、様々な噂が残されているが、しかしながら実際のケルルは、没するまでの間、選帝侯フェルディナント・マリアと連絡を取り合っていた。