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'''李昭皇'''('''りしょうこう'''、'''Lý Chiêu Hoàng''', [[1218年]] - [[1278年]]、在位[[1224年]] - [[1225年]])は、[[李朝大越国|李朝]]の第9代[[皇帝]]。[[ベトナム]]で唯一の[[女帝]]といわれる。第8代皇帝[[恵宗 (大越李朝)|恵宗]]の次女で、[[陳朝]]の初代皇帝[[太宗 (陳朝)|太宗]]の皇后。本名は'''李佛金'''(李仏金)または'''李天馨'''だが、姓と[[諡]]を合わせた李昭皇の名で呼ばれることが多い。
 
1224年、父の恵宗が[[陳守度]]によって皇位を廃されると、その後釜としてわずか7歳で擁立されることとなった。翌1225年、陳守度の政略によって、父の恵宗は自殺に追い込まれ、陳守度の甥に当たる太宗と結婚するとを余儀なくされる。こうして皇位を夫に禅譲することを余儀なくさベトナム李朝は完全に滅亡したの唯一ある。なお、李朝皇族は、この李昭皇とその姉[[女帝順天皇后]]と言わを除いて、全て陳守度によって殺害されている'''李昭皇'''である。
 
そして李昭皇も[[1237年]]、太宗との間にいつまでたっても実子が生まれないことを理由に離別させられてしまった。なお、太宗はその後、陳守度の策動で自分の兄である[[陳柳]]に嫁いでいた李昭皇の姉である順天を強引に離婚させ、皇后として迎えている。
翌年、陳守度の政略によって、父の恵宗は自殺に追い込まれ、陳守度の甥に当たる太宗と結婚することを余儀なくされる。こうして皇位を夫に禅譲することを余儀なくされ、李朝は完全に滅亡したのである。なお、李朝の皇族は、この李昭皇とその姉・[[順天皇后]]を除いて全て陳守度によって殺害されている。
 
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そして李昭皇も[[1237年]]、太宗との間にいつまでたっても実子が生まれないことを理由に離別させられてしまった。なお、太宗はその後、陳守度の策動で自分の兄である[[陳柳]]に嫁いでいた李昭皇の姉である順天を強引に離婚させ、皇后として迎えている。
[[Category:ベトナムの皇帝]]
 
[[Category:ベトナム史の人物|りしようこう后妃]]
[[Category:1218年生|りしようこう]]
[[Category:1278年没|りしようこう]]
 
[[vi:Lý Chiêu Hoàng]]