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'''山田 わか'''(やまだ わか、[[1879年]][[12月1日]] - [[1957年]][[9月6日]])は婦人運動家、社会思想家。[[神奈川県]]出身。
 
神奈川県[[三浦郡]][[久里浜村]](現在の[[横須賀市]])の貧農、浅葉弥平治とミヱの4女として生まれる。18歳の時に上京先の横浜で[[女衒]]にかどわかされ、[[1897年]](明治30)渡米、[[シアトル]]の娼館に売られる。[[1900年]](明治30)33)に新聞記者・立井信三郎に助けられ、[[キリスト教]]に入信し通訳として働く。[[1903年]](明治36)に、[[サンフランシスコ]]で[[山田嘉吉]]の英語塾へ入り翌年結婚。[[1906年]](明治39)に帰国する。
 
嘉吉の下で[[スウェーデン]]の社会思想家[[エレン・ケイ]](1849-1926)の[[母性主義]]の思想にふれ、以後、妊娠・出産・育児にあたる母親を国家により保護する、すなわち国による母性の保護を思想信条とした。[[平塚らいてう]]の『[[青鞜]]』誌上にエレン・ケイなどの翻訳をいくつか寄稿、[[新婦人協会]]の設立時には評議員の一人として参加。また[[1934年]](昭和9年)に、母性保護法制定促進婦人連盟が結成されると初代委員長に就任。運動の成果は、[[1937年]](昭和12)3月に「[[母子保護法]]」の成立として結実する。