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== 伊佐氏と伊佐城 ==
伊佐郡を名字の地としていた一族に[[伊佐氏 (常陸国)|伊佐氏]]がある。[[1189年]](文治5年)の[[源頼朝]]による[[奥州合戦]]では、[[伊達朝宗|常陸入道念西]]の長子[[伊佐為宗]](常陸冠者為宗)が信夫佐藤庄司([[佐藤基治]])を討ち取る戦功をあげ、奥州[[伊達郡]]を拝領した。為宗は本領の伊佐郡にとどまったが、念西と一族の者が伊達郡へと下り、後の[[仙台藩]][[伊達氏]]の始祖となった。[[鎌倉幕府]]の公式記録ともいえる[[吾妻鏡]]では、[[1240年]](仁治元年)の[[伊佐右衛門慰]]以降、[[伊佐氏 (常陸国)|伊佐氏]]に関する記述は見られない。しかし[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に[[常陸国]]が戦場となると、伊佐氏<ref>伊佐太郎と伝わる</ref>は[[伊佐城]]を拠点に、同族の[[伊達行宗]](伊達行朝)とともに[[南朝 (日本)|南朝]]方として戦っている。[[伊佐城]]は、[[1343年]](興国4年・康永2年)に落城。[[伊佐氏 (常陸国)|伊佐氏]]は没落し、伊達氏も常陸における拠点を失う。
 
==脚注==