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===税産基準と僑寓基準===
 
主戸・客戸をどのように分類するかについては、'''税産基準'''と'''僑寓基準'''の二つの基準が対立している。税産基準は主戸・客戸を両税法の課税対象となる税産(土地家屋)を所有し、両税を負担する者を主戸、税産を所有せず、両税を負担しない者を客戸とする。一方、僑寓基準によれば、特定の地に定住する者は主戸、定住せず各地を転々とする(「僑寓」とは仮住まいの意)者は客戸とされる。特に、本籍地に居住するか否かで分類するものを本貫基準(本貫=本籍地)という。両者のうち、税産基準が根本的な基準とされたとする説がほぼ定説となっている。上述の分類は、税産基準に従って便宜的に分類したものである。
 
===五等戸制===
両税法を施行するためには、両税を納める戸を把握し、それを記録した戸籍を造ることが必要になる。そこで全国の戸を土地所有の有無によって主戸と客戸に区分して有産の客戸を主戸に編入した。そして主戸を財産額によってランク付けし、その額によって負担額を決定する制度が行われた。これを'''戸等制'''という。宋代においては'''五等戸制'''が行われた。<br/>
 
宋は戦乱の続いた[[五代十国]]のあとに成立したため、当初は戸籍整理のための帳簿がそろっておらず、戸等制は唐の制度を受け継いで'''九等戸制'''が行われていた。やがて国力が安定してくると、[[明道]]2年([[1033年]])に全国の郷村に五等戸制を実施して全国の戸を把握し、主戸に両税と[[職役]]を課した([[差役法]])。<br/>
五等戸制実施のための帳簿が'''五等丁産簿'''(五等版簿)である。郷村の耆長・戸長・里長が各主戸の丁口と財産(田地)を記録し、財産の額に応じて五等に区分し、五等丁産簿を作成する。実際には田地のみが基準とされ、丁口は記載されなかった。田地の地力とは関係なく、その面積のみが記録された。<br/>
 
上等戸(上戸)は地主層で、官戸・形勢戸がこれに含まれる。上等には100畝以上の土地を所有する者もあり、非常に広い土地を所有した。彼らは租税の運搬等の[[職役]]を負担させられたが、その負担は大変重いものであり、破産する者が多かった。中等戸(中戸)は30~50畝程度を所有していた自営農民である。下等戸(下戸)は非常にわずかな土地しか所有していない自作農ないし自小作農で、貧困な生活を送っていた。五等戸のうち、多くの部分は下等戸で占められ、上等戸の数は少なかった。全く土地を持たず、地主の田地を耕作する戸は客戸とされ、五等戸のわくから排除されていた。<br/>
五等戸制実施のための帳簿が'''五等丁産簿'''(五等版簿)である。郷村の耆長・戸長・里長が各主戸の丁口と財産(田地)を記録し、財産の額に応じて五等に区分し、五等丁産簿を作成する。実際には田地のみが基準とされ、丁口は記載されなかった。田地の地力とは関係なく、その面積のみが記録された。<br/>
坊郭(都市部)ではこのような制度は行われていなかったが、[[募役法]]が実施されてからは坊郭の住民から免役銭を徴収することになり、主戸を把握する必要が生じ、'''十等戸制'''が行われた。郷村の主戸が田地を区分基準とするのに対し、坊郭の主戸は家屋を基準として区分され、その額に応じて免役銭の供出を負担した。<br/>
 
上等戸(上戸)は地主層で、官戸・形勢戸がこれに含まれる。上等には100畝以上の土地を所有する者もあり、非常に広い土地を所有した。彼らは租税の運搬等の[[職役]]を負担させられたが、その負担は大変重いものであり、破産する者が多かった。中等戸(中戸)は30~50畝程度を所有していた自営農民である。下等戸(下戸)は非常にわずかな土地しか所有していない自作農ないし自小作農で、貧困な生活を送っていた。五等戸のうち、多くの部分は下等戸で占められ、上等戸の数は少なかった。全く土地を持たず、地主の田地を耕作する戸は客戸とされ、五等戸のわくから排除されていた。<br/>
 
坊郭(都市部)ではこのような制度は行われていなかったが、[[募役法]]が実施されてからは坊郭の住民から免役銭を徴収することになり、主戸を把握する必要が生じ、'''十等戸制'''が行われた。郷村の主戸が田地を区分基準とするのに対し、坊郭の主戸は家屋を基準として区分され、その額に応じて免役銭の供出を負担した。<br/>
 
なお、[[元 (王朝)|元]]代になると再び九等戸制が行われた。
 
===主客戸統計===
客戸の主戸に対する比率は、地域ごとに比較した場合、[[両浙]](現[[浙江]]省)等の地方では低く、[[四川]]等の地方では高い傾向にあった。両浙地方は大土地所有制が最も発達した地方であって、当然所有地内で耕作する客戸が多くなることが予想されるが、両浙の客戸比率の低さはそれと矛盾している。これについては、この地方は商業が発達し、生活水準が高く、客戸が減少したため、という指摘がなされている。一方、四川地方の比率の高さについては、この地方は空いた土地が多く、一つの地主所有地の中に多数の客戸が存在したためとの指摘がある。<br/>
 
また、時間的経過による推移を見た場合、大土地所有制は時代が下るにつれて発展したと考えられており、したがって地主の土地を耕作する客戸の数も増加するはずであるが、それとは反対に、客戸比率は低下してゆく傾向にあった。客戸/主戸の比率は、宋初は5割以上に達していたが、年々低下してゆき、[[熙寧]]5年([[1072年]])以降は5割を切り、この傾向は[[南宋]]まで変化がなかった。
 
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===客戸の社会的性格===
客戸は一般的に地主のもとで隷属的な状態に置かれていた。客戸は地主の許可を示す証明書(憑由)なしに移動することを許されず、無断で移動した場合は官憲の力により元の場所へ連れ戻されることとなっていた。また、地主が他の者に土地を売る場合、その付属物として客戸も一緒に売られた(随田佃客、事実上の人身売買)。地主は客戸の婚姻にも干渉し、地主の許可がなければ婚姻することを許されなかった。<br/>
 
また、法律上も、良人(庶民)が犯罪を犯した場合に比して客戸は重い刑に処され、客戸は地主の家族と婚姻することを許されないなどの差別が存在した([[主僕の分]]、[[主客の分]])。
 
==研究史==
主戸客戸制研究は、主戸・客戸はどのような基準で区別されるかということを中心的な論点として議論されてきた。論争は関連する様々な論点を派生させ、史料解釈の相違とも相俟って諸説入り乱れる形で発展していった。<br/>
 
===戦前期の研究===
 
*加藤の先駆的研究
客戸制研究に先鞭を付けたのが[[加藤繁]](かとうしげし)である。加藤は、[[宋]]代の戸口(世帯と人口)統計に主戸・客戸の別があることに注目し、両者の違いは何か、という問題意識から客戸の意味を探求した。加藤は不動産の有無を基準として主戸・客戸が区別されたと主張し、これは後に税産基準と呼ばれることになった。また、両者が実態概念上何を指すかについては、主戸は自作農、客戸は小作人であったとしている。さらに、史料に見える主客戸の数を統計にまとめ、両浙等の地域では客戸の比率が低くて主戸は高く、夔州(きしゅう)・荊湖・京西等の地域では客戸の比率が高く、主戸は低いという傾向が見られることを指摘した。</br>
 
加藤の指摘したこれらの論点は、以後40年間に及ぶ論争の発端となった。
 
===戦後の研究===
 
*周藤の研究
客戸制研究はその後しばらく顧みられなかったが、戦後になって再びこの問題を取り上げたのが[[周藤吉之]](すどうよしゆき)であった。周藤は、客戸とは他郷より移って来た者であるとして僑寓基準説の立場をとり、客戸の中には短期労働に従事する雇傭人(こようにん)も含まれるとし、客戸=小作人とは限らず、主客戸統計のみによって社会構成を論じるのは危険であると主張した。周藤以後、僑寓基準と税産基準との二つの説が対立し、論争は複雑化の様相を帯びてゆく。
 
*最盛期の論争
[[柳田節子]]は周藤と同様僑寓基準を支持し、客戸の比率は宋代を通じて低落の傾向を見せ、大土地所有制が時とともに発達していった事情と異なることを指摘した。また、所有者のいなくなった逃田や荒田を耕作する客戸は政府から課税を免除されていたが、その特典を利用し、免税期間が過ぎた後も政府の主戸登録を逃れて客戸であり続けようとした者、すなわち客戸でありながら税産を有する「有田無税の客戸」の存在を主張した。なお、柳田は、加藤の指摘した地域差の問題を国家権力の浸透の度合いと関連付け、客戸比率の高い地域では有田無税の客戸を主戸として登録することを徹底できておらず、政府の支配力が充分に行き渡っていなかったのではないかとして、宋朝政府の支配力にも地域によって偏りがあったと主張している。</br>
 
[[草野靖]]は、主戸・客戸はともに戸籍に登録された人民(編戸)であり、編戸となるには田産の取得が必要であったとする。したがって、客戸は田産を所有して両税を納める者であるということになり、「有田納税の客戸」が存在していたと主張した。また、佃戸は独立の戸籍を持たず、主戸の下に附籍された者であるとする。主戸・客戸の区別は、当初は本籍地の者であるかを基準としていたが、両税法の資産対応現居地課税の原則が定着するにつれ、田産を所有するか否かということが重視されるようになっていったと考え、主客区分を歴史的推移の過程においてとらえようとした。</br>
また、[[島居一康]](しますえかずやす)は荒田を耕作する客戸が一定期間の両税減免期間を経た後、主戸として土地の所有を認定され、両税を負担するようになるという過程を克明に描き出し、税産基準を支持した。また、主客区分については草野と同様、両税法成立の時期を境に僑寓基準から税産基準へと変化していったとしている。</br>
 
以上は代表的な研究者の見解であり、他に多数の研究が発表された。60~70年代は歴史学界において[[マルクス主義]]が栄え、社会経済史研究が全般的に隆盛していた時期であり、客戸制研究も70年代前半まで活況を呈していた。
また、[[島居一康]](しますえかずやす)は荒田を耕作する客戸が一定期間の両税減免期間を経た後、主戸として土地の所有を認定され、両税を負担するようになるという過程を克明に描き出し、税産基準を支持した。また、主客区分については草野と同様、両税法成立の時期を境に僑寓基準から税産基準へと変化していったとしている。</br>
 
以上は代表的な研究者の見解であり、他に多数の研究が発表された。60~7060 - 70年代は歴史学界において[[マルクス主義]]が栄え、[[中国史時代区分論争|時代区分論争]]との絡みで社会経済史研究が全般的に隆盛していた時期であり、客戸制研究も70年代前半まで活況を呈していた。
 
===研究の沈滞化===
 
*高橋説の出現と論争の沈滞化―税産基準説の確定―
客戸論争は多岐に渡る論点を派生させ、複雑化の一途をたどっていたが、この状況に終止符を打ったのが74年に発表された[[高橋芳郎]]の説である。高橋はまず従来の研究者の見解に見られる方法上の欠陥として、第一に主戸・客戸は制度概念、佃戸を実体概念として区別して考察すべきところを、三者を同一線上に扱って混乱をもたらしたこと、第二に史料として挙げられた各種帳簿類の、それぞれの目的・性格や記載形式を無視し、その帳簿に名が記載されることの意味を検討してこなかったことを指摘した。</br>
 
続いて高橋は以下のような主張を展開した。すなわち、帳簿類を個別に検討すると、保甲簿には客戸の戸名が記載されているが、両税の徴収に使われた夏秋税租簿に戸名が記されたのは主戸に限られ、客戸の戸名は記されていなかった。つまり、税役法上客戸を戸として掌握する必要のある帳簿には客戸も戸名を持ち、その必要のない帳簿には戸名を持たなかったことになる。また、農民の戸等を示す帳簿に五等簿があるが、五等簿に記載された戸名は税産所有者の名義を意味するものであり、五等簿上に戸名を持つということは税産所有者、すなわち主戸であることを意味する。したがって、主戸・客戸の区分は税産の獲得を基準とするとして、税産基準説を支持した。また、耕作田土の所有を公認される前は「無田無税」であるから客戸、公認後は「有田納税」であるから主戸、というように峻別して扱われるのであり、戸籍法上「有田無税」の客戸、「有田納税」の客戸の存在は認められないとして、草野・柳田説を退けた。</br>
 
高橋の学説は方法上の確実性と内容上の説得力に富むもので、現在に至るまで最も有力なものと見なされており、定説としての地位を確立した。高橋説の出現により主客区分の問題は基本的に決着がつけられ、以後この分野の研究は急速に衰退してゆく。
 
*高橋以後
草野は客戸が両税を負担していたとする史料を挙げ、有田納税客戸の存在を主張し続け、高橋説に対抗した。これに対し島居は荒田を耕作している客戸について改めて検討し、この客戸は田土を「所有」しているのではなく、あくまでも「占有」を意味するのであって、荒田の所有者は官であり、客戸は占有権を持つに過ぎず、したがって有田客戸を客戸の具体的な存在形態として一般化することはできないとした。島居の説は高橋以後に残されていた問題を整理・補足したものである。</br>
主客区分の問題に関する研究は島居説を最後として現れておらず、主戸客戸論争は社会経済史研究の全般的な衰退の流れに巻き込まれる形で幕を閉じた。
 
== 参考文献 ==
[[category:中国の制度史|しゅこきゃっこせい]]
 
*[[加藤繁]]
*[[1952年]]『支那経済史考証 下』([[東洋文庫]])
*[[周藤吉之]]
*#[[1954年]]『中国土地制度史研究』([[東洋文化研究所]])
*#[[1965年]]『唐宋社会経済史研究』([[東京大学出版会]])
*[[高橋以後芳郎]]
*#[[2001年]]『宋-清身分法の研究』([[北海道大学図書刊行会]]、ISBN 4832961713)
*#[[2002年]]『宋代中国の法制と社会』([[汲古書院]]、ISBN 4762925411)
*[[柳田節子]]
*#[[1986年]]『宋元郷村制の研究』([[創元社]]、ISBN 442345002X)
[[category:中国の制度史|しこきゃっやつこせい]]