「クレメンス2世 (ローマ教皇)」の版間の差分

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[[ニーダーザクセン州|下ザクセン]]のホルンブルクに生まれる。モールスレーベン・ホルンブルク伯コンラートKonradと、その妻アムルラートAmulradの子。教皇となる以前、[[1040年]]から[[1046年]]までバンベルク([[バイエルン]]地方の都市)の司教を務めた。
 
ドイツ王(のち[[神聖ローマ帝国|神聖ローマ皇帝]])[[ハインリヒ3世 (神聖ローマ皇帝)|ハインリヒ3世]]は1046年[[12月20日]]に開催された[[ストリ]][[会議]]の席上、教皇[[グレゴリウス6世 (ローマ教皇)|グレゴリウス6世]]の後任にスイドガーを指名。スイドガーはクレメンス2世として教皇に即位する。そしてすぐにハインリヒ3世に神聖ローマ帝国の[[王冠|帝冠]]を授けた。この行為に対して教会改革論者らから批判を受けたものの、翌1047年には[[ローマ]]にて会議を開催、[[聖職売買シモニア]]に対する法令の発布など[[カトリック教会]]の改革を進めた。
 
クレメンス2世は1047年10月9日に死去。その遺骸は彼の愛するバンベルクに埋葬された。その墓は現在バンベルク聖堂の西側[[内陣]]にあり、[[アルプス山脈]]より北では唯一の教皇の墓である。近年「クレメンス2世は[[砂糖]]に[[毒|毒物]]を混入され殺害された」という古くからの噂を実証するため遺体が調査され、遺体から毒物が検出された。ちなみに当時砂糖は[[性病]]の治療薬として用いられていた。