「ジュリー・アラール=デキュジス」の版間の差分
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'''ジュリー・アラール・デキュジス'''('''Julie Halard-Decugis''', [[1970年]][[9月10日]] - )は、[[フランス]]・[[
7歳から[[テニス]]を始め、[[1986年]]に16歳でプロ入り。1989年からアルノー・デキュジス(Arnaud Decugis)のコーチを受け始め、1995年9月22日に結婚した。夫のアルノー・デキュジスは、黎明期の全仏選手権(現在の[[全仏オープン]])で活躍した[[マックス・デキュジス]]([[1882年]] - [[1978年]])の遠縁の子孫である。[[1991年]]に[[プエルトリコ]]の大会でシングルス初優勝。[[1992年]]の[[1992年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]2回戦で[[アランチャ・サンチェス]]を破り、4回戦まで進出。[[1993年]]の[[1993年全豪オープンテニス|全豪オープン]]と[[1994年]]の[[1994年全仏オープンテニス|全仏オープン]]で[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]のベスト8に入る。[[1996年]]7月、女子国別対抗戦・[[フェドカップ]]準決勝で[[フランス]]と[[スペイン]]が対戦した時、アラール・デキュジスは[[アランチャ・サンチェス]]と対戦中に右手首の靱帯断裂を起こしてしまう。この故障のため、[[1997年]]のシーズンは全く試合に出場できなかった。そのブランク期間中、アラール・デキュジスは[[美術]]のレッスンを受け、趣味の絵画の腕を磨いたという。[[1998年]]にシングルスとダブルスで2勝ずつを挙げ、ツアー復帰を果たした。
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