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'''植民地時代のパナマ・ビエホ古代の歴史的産とパナマ旧市街'''は、[[中米]]の国、[[パナマ]]の首都である[[パナマシティ]]の東に位置してい[[世界跡]]産に登録されている文化財として貴重な建造物群である。
 
{{世界遺産文化概要表|
site_img = 画像:Catedral de Panamá Viejo.JPG|
site_img_capt = パナマ・ビエホの歴史的跡群の象徴的建物
大聖堂(左)と鐘楼跡|
site_img_width = 275px|
ja_name = 植民地時代のパナマ・ビエホの古代歴史的パナマ旧市街|
パナマの歴史地区|
en_name = Archaeological Site of Panama Viejo and the Historic District of Panama|
fr_name = Site archéologique de Panamá Viejo et district historique de Panamá|
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rg_year = 1997年|
ex_rg_year =2003年|
remarks = パナマの旧市街にパナマビエホの遺跡古建築公園のみならず、貴重なプレ・イスパニコ(スペイン人到達以前)文化の遺跡が残る周辺の民有地も含めを加えた拡張登録
2003年の登録範囲拡大に伴い、"パナマの歴史地区"の登録名は、"サロン・ボリバルのあるパナマの歴史地区"から変更された。|
org_url = http://whc.unesco.org/en/list/790|
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[[画像:Patromonio Mundial.jpg|left|150px|thumb|世界遺産登録記念板(大聖堂前)]]
 
[[2003年]]の第27回[[ユネスコ]]世界遺産委員会パリ会議において、文化遺産に登録される。<!--同じパナマシティ内にある[[カスコ・ビエホ]]が[[1997年]]に文化遺産として登録されたことを受け、パナマ・ビエホ周辺の貴重なプレ・イスパニコ文化(スペイン人到達以前の文化)とあわせて再登録された経緯をもつ。具体的にどんな遺跡があるか不明。チリキ文化やコクレ文化の遺跡があるのか?-->
パナマ・ビエホ代遺跡建築群は、世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
 
 
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[[画像:ロゴ.jpg|left|170px|thumb|パナマ・ビエホ財団のロゴマーク]]2003年の世界遺産登録に先駆けて設立された[[第三セクター|第3セクター]]方式の財団(非営利団体)。1995年にパナマの[[文化財]]所管官庁 INAC(国立文化院 [[スペイン語]] Instituto Nacional de Cultula)と IPAT(パナマ観光庁 スペイン語 Instituto Panameño del Turismo)が国際奉仕団体クラブ・[[キワニス]](英語 Club Kiwanis)・民間銀行バニストゥモ(スペイン語 Banistmo)と共同出資した。四者の代表者からなる理事会のもとに、総括事務部門・考古学部門・建築学部門・遺物保存修復部門と付属博物館から構成されている。
 
現在、遺跡古建築群が立地ないし埋蔵されている280,000㎡にも及ぶ広大な地域は、遺跡考古公園として財団が管理している。また、公園内には大聖堂前に土産物店等が入居する建物(旧軍司令部)と1953年にパナマ建国50周年を記念して作られた生活・基幹道路の建国50周年記念道路(ビア・シンクエンテナリオ スペイン語 Vía Cincuentenario)があり、ともに貴重な文化財保護の観点から財団では移転を国に強く要望している。
 
2006年には『Canto Rodado(カント・ロダード 道路舗装のために使われた縦石)』という[[考古学]]と[[建築学]]の[[紀要|研究紀要]]を公刊した。財団設立時の遺復興計画([[マスタープラン]])によると、遺跡考古公園内の発掘調査ならびにその成果を尊重した遺跡古建築群の復興を遂げ、当時の町並みを復元することを最終目標として掲げている。
 
 
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== 考古学部門 ==
 
[[画像:La oficina y El laboratrio.jpg|left|150px]|thumb|財団の事務・研究棟]]文化財の発掘調査・研究と付属博物館での展示業務を主務とする。建築学部門と連携して効果的な建造物構群の保存を図っている。
部門長は国立パナマ大学歴史学部文化人類学科の考古学担当教授が兼任している。所属職員は発掘調査研究員(アルケオロゴ スペイン語 Arqueólogo)1名と発掘調査ならびに発掘調査をあらゆる方面から支援する[[文化人類学]]の専門研究員(アシステンテ スペイン語 Asistente)2名である。
 
なお、2003年から財団では日本の[[青年海外協力隊|青年海外協力隊員]]を受け入れており、Arqueólogo2名体制で埋蔵文化財としての植民地時代の古建築の発掘調査や文化財保護・保存の活動を行っている。職員の国内外における学会活動も盛んで、欧米を中心とした考古学研究者が年間を通じて多く来所している。
 
== '''主な遺跡''' ==
この古建築群の特徴は、主要なものだけでも7ヵ所の宗教施設が見られることにある。
 
 
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'''中央広場'''(プラサ・マジョール スペイン語 Plaza Mayor)
 
東西60m、南北55mの範囲が現存しており、当時の地図から正方形であることが知られていることから南側は現存建物や駐車場等によって破壊されている可能性がある。建国50周年記念道路建設時(1,953年)に、大聖堂まで直接車が乗り入れられるロータリー(道路)が敷設されていた。しかし財団設立時に文化財保護の観点から国に撤去を陳情し実現している。その後に発掘調査が行われ、広場西側の建物群や広場創設時以前の貴重な[[アメリカ先住民|先住民族(インディヘナ)]]の遺跡が確認されている。
 
 
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[[画像:Compañía de Jesús.JPG|left|150px|thumb|コンパニア・デ・ヘスース修道院 教会部分]]16世紀後半から17世紀初頭にかけて建設された敷地東西85m、南北55mの[[イエズス会]]の修道院。大聖堂から西に向かう大通りの北側に位置し、西側では女子修道院と路地を挟んで接している。建物は東側に集中している。通りに面した教会施設の北側に中庭を配し、周囲にその他の建物群(内庭回廊)が設置されている。また現存する建物の壁が比較的高いことから2階建てだった可能性が考えられる。礼拝施設は全部で3ヶ所あったことが文献等で確認されているが、現在では教会建物の大祭壇正面の壁のみが明確に残っている。この壁上部には丸窓が2ヶ所残っており、[[ステンドグラス]]がはめ込まれていたものと推定されている。教会東側の正面出入り口について、2003年に協力隊員による発掘調査が実施され、20世紀の整地(盛り土)の下から当時のレンガ敷きの床面が確認されている。
 
現在、地元中学生の研修場所として活用が検討されている教会北東側の部屋(内庭回廊の一部)を2007年1月から全面発掘調査した。4月中旬に発掘作業は終了し、当時のレンガ敷きの床面や下層から検出された修道院建設以前のインディヘナ文化の貴重な遺が発見されている。
 
 
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'''サン・フアン・ディオス病院'''(オスピタル・サン・フアン・ディオス スペイン語 Hospital San Juan Dios)
 
[[画像:Hospital de San Juan Dios.JPG|left|150px|thumb|サン・フアン・ディオス病院 全景]]町で唯一の療養施設。現在は西側(45m)と北側(30mほど)に高い石壁が残っているのみである。歴史的に見て建物群はサン・フアン・ディオス修道士によって土地が取得された17世紀には完成をしていたようである。1620年には病院はまだ小さく、民有地を間借りしていた。また付設の教会が当時の地図によって存在していたことがわかっており、近年財団が受け入れているドイツの大学調査隊が部分的ながら教会建物の床面を検出している。現存する西側壁面が教会西壁に相当する。今後も発掘調査の成果が期待される。また南側に接して建国50周年記念道路が通っていることから、遺跡の南端部分(教会入り口付近が確認できていない。
 
 
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'''サン・フランシスコ会修道院'''(コンベント・デ・サン・フランシスコ スペイン語 Convento de San Francisco)
 
女子修道院の南西に位置するフランシスコ会の男子修道院。東に位置する女子修道院と同規模の敷地面積を有し、建物自体は南北に長かったことが当時の地図によって知られている。南北に90m現存する建物は、倒壊した大量の石材と周辺の宅地化によって北端[[遺構]]の確認ができていない。また内部には2ヶ所の中庭があって、高い壁から2階建てだったものと思われる。従来から周辺の急速な宅地化など遺跡の崩壊が認められている上に、古建築構群の南端に建国50周年記念道路があることで、車の振動や排ガスによる更なる古建築崩壊の危機が関係者から指摘されている。
 
 
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[[画像:Los Genoveses.JPG|left|150px|thumb|ジェノバ人の家(現状)]]16世紀以降、当地での[[黒人]]に特化した人身売買を独占的に行っていた[[ジェノバ]]([[イタリア]])人の屋敷跡。屋敷は石造2階建てで上層階は木造だったと推定される。これら人身売買から得られる利益は、大商人とヨーロッパの国家との融資契約にも匹敵するほどだったといわれている。建物の東側は現在では陸地化しているが、直接船が着岸できるような低い石壁が建物の沿って現存している。
2007年2月からパナマ人考古学研究者と合同で建物北西側と北側の広範囲で発掘調査を実施している。建物の北西側からは表土直下からコロニアル植民地時代の土器や金属製品等が多数出土しており、建物の北側は近年宅地化される際に造成された痕跡が認められた。今後はパナマにおけるスペイン人主導の町にあって、異国人であるイタリア人がどのようにして独自の経済活動を発展させたのか各種文献や考古学的研究が待たれる。
 
 
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'''王の橋'''(プエンテ・デル・レイ スペイン語 Puente del Rey)
 
[[画像:Puente del Rey.JPG|left|150px|thumb|王の橋 全景]]遺跡考古公園の北端に位置する全長35mほどの橋。1619年に従前の木造橋からアーチ型石造橋に造り変えられた。完成は1634年。この橋を多くのロバがカリブ海に停泊する[[ガレオン船]]に積み込むために南米[[インカ]]の財宝を積んで通り過ぎた。これらの財宝はカリブ海のポルトベロから大西洋を渡ってスペインの[[セビリャ]]や[[カディス]]まで運ばれた。17世紀当時、ヨーロッパにもたらされたラテンアメリカの[[金]](きん)は、ヨーロッパ市場を暴落させたとの記録が残っている。この橋の当初の目的は、パナマの町からカミノ・レアルを経てポルトベロ(カリブ海)に至る連絡通路を確保することにあった。
 
 
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'''サン・ホセ修道院'''(コンベント・デ・サン・ホセ スペイン語 Convento de San José)
 
[[画像:Convento de San José.JPG|left|150px|thumb|サン・ホセ修道院の教会跡]]王の橋の南に位置する男子修道院。17世紀の最盛期に描かれた町の地図にも記されていないことから建設(進出)そのものが遅かったものと思われる。現在では教会の遺(東西、南北ともに20m)のみを見ることができる。この建物は上部にアーチ型天井を持つ町で唯一のものであったが、1998年までにすべて崩落した。この修道院自体完成しなかった可能性を持っている。また建物の東の方には修道院の建物が存在したが、遺跡は遊び場を建設するために1980年頃に平らにされた。かつて、20世紀初頭の建築家レオナルド・ビリャヌエバが建物を測量しており、その報告書によると建物は木造建築で、回廊が未完成だった。今日、建国50周年記念道路が西側に接するように敷設されており、一部西側の壁面は道路側に倒れ掛かるなど保存状況の改善が急がれる。相対的に周辺地域の都市化・都市公害などによる汚染・老朽化も急速に進んでいる。
 
== 町の成立と展開 ==