「ジョセフ・キーナン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
16行目:
[[1947年]]12月31日に、[[東條英機]]が、「天皇の平和に対する希望に反した行動を、[[木戸幸一|木戸]][[内大臣]]がとったことがありますか?」というローガン弁護人の質問に対し、「勿論ありません。日本国の臣民が陛下のご意思に反して、彼是するという事は有り得ぬ事であります。いわんや、日本の高官においておや」と返答した。この事から、[[ウィリアム・ウェブ|ウェブ]]裁判長は回答の持つ重要性を指摘、[[ソビエト連邦]]代表検察官であるS・A・ゴルンスキーも、天皇の訴追についてキーナンに進言した。キーナンは早急に[[田中隆吉]]元[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[少将]]を通して、[[松平康昌]]式部長官→木戸→東條のルートで、極秘に前述の証言を否定する様、東條説得工作を行った。この工作は功を奏し、[[1948年]]1月6日の法廷で東條は、キーナンの「その戦争を行わなければならない、行えというのは、裕仁天皇の意思でありましたか?」という質問に対し、[[太平洋戦争]]開始の[[詔勅]]の中にある「豈朕カ志ナラムヤ(誠にやむを得ざるものであり、朕の意思にあらず)」という言葉を例に、天皇は東條の進言で開戦に「しぶしぶご同意になった」と再証言した。この証言により、天皇の戦争責任に関する問題は決着が付けられ、再び論議が法廷で交わされることはなかった。
 
== 評価人物 ==
生前の彼は、犯罪の取り締まりに辣腕を揮っていたためか、非常に高圧的な性格で「鬼検事」と評され、東京裁判においても、他の連合国検事達からは非常に嫌われていた。特にイギリス代表検察官の[[アーサー・S・コミンズ・カー]]からは「彼は大酒飲みで、白とも黒とも判別できないような人物だ」と酷評されている。