「パナマ・ビエホとパナマ歴史地区」の版間の差分

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→‎主な遺跡: 遺跡→遺構、1,995、1,953→1953、1995、数字全角→半角など
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なお、2003年から財団では日本の[[青年海外協力隊|青年海外協力隊員]]を受け入れており、Arqueólogo2名体制で埋蔵文化財としての植民地時代の古建築遺構の発掘調査や文化財保護・保存の活動を行っている。職員の国内外における学会活動も盛んで、欧米を中心とした考古学研究者が年間を通じて多く来所している。
 
== '''主な遺''' ==
この古建築遺構群の特徴は、主要なものだけでも7ヵ所の宗教施設が見られることにある。
 
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[[画像:Image-Catedral y Torre.jpg|left|150px|thumb|大聖堂(左奥)と鐘楼]]
 
南北55m、東西最大35mの規模を持つ町の象徴的建物。現在では多くの観光書・パンフレット等にも掲載されている。町の設立当初、16世紀初頭には小規模な木造建物だったが、1619年には現存の石組み建物が建設されている。町最大の広場である中央広場の東に面している。建物は南北方向に長く南に祭壇があり、左右に付属礼拝堂を伴う形はさながら[[ラテン十字]]を模す[[バシリカ]]の様相を呈している。また祭壇右奥に高さ33mの鐘楼(トーレ スペイン語 Torre)が敷設されている。鐘楼は2006年4月に修復5ヵ年計画が完了し、本来内部は吹き抜けだが階段を設置して展望台として一般に公開している。また、パナマ・ビエホ財団のロゴマークはこの鐘楼をデザイン化したものである。
 
 
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'''中央広場'''(プラサ・マジョール スペイン語 Plaza Mayor)
 
東西60m、南北55mの範囲が現存しており、当時の地図から正方形であることが知られていることから南側は現存建物や駐車場等によって破壊されている可能性がある。建国50周年記念道路建設時(1,953(1953年)に、大聖堂まで直接車が乗り入れられるロータリー(道路)が敷設されていた。しかし財団設立時に文化財保護の観点から国に撤去を陳情し実現している。その後に発掘調査が行われ、広場西側の建物群や広場創設時以前の貴重な[[アメリカ先住民|先住民族(インディヘナ)]]の遺跡が確認されている。
 
 
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[[画像:Concepcion de las Monjas.jpg|left|150px|thumb|女子修道院 礼拝堂]]
 
町で唯一の[[修道女]]のための施設。会派はスペインに本部を置く「無原罪の御宿り女子修道会」(スペイン語 Limpia Concepción de Nuestra señora)。東西120m、南北60mの敷地の中に多くの建物があったことが当時の地図によってわかっている。1594年11月29日に町議会議長のフランシスコ・デ・カルデーナスのもと、検事総長のアンドレス・コルテスの女子修道院設立の提案が議会で承認された。検事総長の提案の原点は、町に住む財産を持たないために将来結婚できない貧しい家に育った少女や身寄り・収入のない未亡人たち、または親がいない農民の子供たちを救済することにあった。女子修道院設立のために現在の[[ペルー]]の首都、当時はスペイン統治下の[[リマ]]から院長と副院長、修道女の教育を担当する教師の総勢3名が1598年6月10日にパナマの町に船で到着した(そのほかに修道女の雑用を勤める女性1名がいたが途上船内で死亡した)。設立当初は財政的に恵まれていなかったが、17世紀にいたって町の有力者フランシスコ・テリン(スペイン語 Francisco Terrín)の財政的支援を受け、周辺の地所を取得・拡張を繰り返して町最大の宗教施設になった。17世紀初頭には従来の木造建物から現存する石造建物に作り変えられたが、1621年の地震によって大部分が崩落した。再建間もない1671年、ヘンリー・モーガンによる町襲撃時に修道院長は修道女たちを小さな船に乗せてリマへと立ち去った。町の復興後は中心部に近い場所に再建を果たしたが、往時ほどの勢力を保つことはできなかった。現在では礼拝堂の修復作業もほぼ終了し、床部分を補強して記念式典や演劇・ミニコンサート会場などとして現地に密着した利用が図られている。
 
 
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'''コンパニア・デ・ヘスース修道院'''(スペイン語 Compañía de Jesús)
 
[[画像:Compañía de Jesús.JPG|left|150px|thumb|コンパニア・デ・ヘスース修道院 教会部分]]16世紀後半から17世紀初頭にかけて建設された敷地東西85m、南北55mの[[イエズス会]]の修道院。大聖堂から西に向かう大通りの北側に位置し、西側では女子修道院と路地を挟んで接している。建物は東側に集中している。通りに面した教会施設の北側に中庭を配し、周囲にその他の建物群(内庭回廊)が設置されている。また現存する建物の壁が比較的高いことから2階建てだった可能性が考えられる。礼拝施設は全部で3ヶ所あったことが文献等で確認されているが、現在では教会建物の大祭壇正面の壁のみが明確に残っている。この壁上部には丸窓が2ヶ所残っており、[[ステンドグラス]]がはめ込まれていたものと推定されている。教会東側の正面出入り口について、2003年に協力隊員による発掘調査が実施され、20世紀の整地(盛り土)の下から当時のレンガ敷きの床面が確認されている。
 
現在、地元中学生の研修場所として活用が検討されている教会北東側の部屋(内庭回廊の一部)を2007年1月から全面発掘調査した。4月中旬に発掘作業は終了し、当時のレンガ敷きの床面や下層から検出された修道院建設以前のインディヘナ文化の貴重な遺跡が発見されている。
 
 
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'''サン・フランシスコ会修道院'''(コンベント・デ・サン・フランシスコ スペイン語 Convento de San Francisco)
 
女子修道院の南西に位置するフランシスコ会の男子修道院。東に位置する女子修道院と同規模の敷地面積を有し、建物自体は南北に長かったことが当時の地図によって知られている。南北に90m現存する建物は、倒壊した大量の石材と周辺の宅地化によって北端[[遺構]]の確認ができていない。また内部には2ヶ所の中庭があって、高い壁から2階建てだったものと思われる。従来から周辺の急速な宅地化など遺跡の崩壊が認められている上に、古建築遺構群の南端に建国5050周年記念道路があることで、車の振動や排ガスによる更なる古建築遺構崩壊の危機が関係者から指摘されている。
 
 
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'''テリン邸跡'''(カサス・テリン スペイン語 Casas Terrín)
 
大聖堂の西側、中央広場の北側に位置する16世紀末から17世紀初頭の町の有力者フランシスコ・テリンの一連の邸宅跡。現在は母屋部分(東西45m、南北30m程度)と北に接する2棟の小建物の基礎が若干残っているに過ぎない。1600年の中央広場拡張と20世紀の大聖堂前のロータリー建設に伴って周辺の土地が改変されており、建物の南側が破壊されている可能性がある。また1997年から98年にかけて建物敷地の南側で発掘調査が実施されており、当時の個人邸宅としては珍しいアーチ型門の存在が確認されたことが特筆される。同じく現存建物の中にもアーチを使った部分が一部現存しており、直近で見学することができる。
 
テリン夫妻が新しい礼拝堂で結婚式を行うことを条件に多額の寄付をしたことで女子修道院の誘致が実現している。
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'''司教館・アラルコン邸跡'''(カサ・デル・オビスポ スペイン語 Casa del Obispo  カサ・アラルコン スペイン語 Casa Alarcón)
 
大聖堂の正面入り口北側に位置する建物。1640年ごろまではこの地に大聖堂で奉仕する司教の木造建物があった。その後、40年代後半になってペドロ・デ・アラルコン(スペイン語 Pedro de Alarcón)に土地の所有権が移り、中2階を持つ石造邸宅が建てられた。現存の建物は南北45m、東西20mを測るアラルコン邸のもので、1階と中2階が石造り、2階は板壁を有していたことが当時の文献からわかっている。建物は1階部分が塀で囲まれた中央の中庭を挟んで南側に居住空間、北側に調理場を有する長方形で、中2階以上は現存していない。1988年と2000年に建物内部での発掘調査が部分的に行われているが、全容解明にはいたっていない。
 
 
'''西の建物群'''(カサス・オエステ スペイン語 Casas Oeste)
 
1,9951995年から翌年にかけてPanamá Viejo財団の考古学部門長が発掘調査を実施している。その報告書によると、Plaza Mayorの西に接する地点からColonial期と思われる建物群の痕跡を検出した。検出遺構は北側に接しているCalle de la Empedrada(舗装された大通り)に沿うように壁と思われる基礎部分と南側に広がる丸石を敷き詰めた床面、十字に交差する柱の礎石部分などである。北側の壁には幅2m2mの金属製扉が設置されており、通りに面した間口は10m弱であった。また内部からは瓦片や建築に用いたと思われる鉄釘、壁を構成していた石片やしっくいが折り重なるように出土している。なお丸石を並べた床の下層から別のレンガ敷き床面を検出している。建物群の性格としては他の建物以上に重厚なつくりであることや釘を中心とした鉄製品が大量に出土していることから鍛冶工房の可能性を指摘する研究者もいるが、未だ定説はない。
発掘調査報告書では複数の建物群(報告書では2~32~3棟)を検出したとしているが、今後は出土している遺物や遺構の実測図等による比較検討・文献史料との整合性や史料批判が必要となっている。
 
 
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'''町議会棟'''(エル・カビルド スペイン語 El Cabildo)
 
15m四方、ほぼ正方形の中2階を持つ建物で、東側に別棟が接続していた。現在では建物の基礎のみが残っている。北側は大聖堂と幅2m2mほどの細い路地をはさんで接している。1996年に発掘調査が一部実施され、大聖堂(鐘楼)西壁ラインの延長線上に門の礎石跡と建物内部で上層階へ上がる階段跡を検出している。
 
=== 西地区 ===
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'''メルセー修道院'''(コンベント・デ・ラ・メルセー スペイン語 Convento de La Merced) 
 
[[画像:Convento de la Merced.JPG|left|150px|thumb|メルセー修道院 (現状)]]大聖堂を中心とした町づくりの中で、孤立するかのように町の西外れに設立されたメルセル会の男子修道院。北側に祭壇を有し、南の海に向かって建っていたことがわかっている。南北50m、東西20mを計る左右非対称の礼拝堂のわずかな壁面と基礎部分のみが残っているだけで、今日では考古学的調査・研究がほとんど進んでいない。近年、青年海外協力隊員による礼拝堂入り口部分の発掘調査が行われ、現代では失われてしまっていた当時の通りの跡を検出した。このことがきっかけとなり、当時の道を再現した遊歩道が整備された。なお礼拝堂の北側はおよそ7~8mほどで宅地と接しており、礼拝堂部分は建国5050周年記念道路によって南北に分断されていることから当該遺跡は文化財の危機に瀕している。また近年の研究成果から、遺構の残存状況が極めて良い(火災痕跡等がない)ことや地理的要因から、1671年にモーガン一味が町を襲撃した際の拠点となったのが当該修道院だったことが最近の研究でわかってきた。