「毛利斉広」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Ryoma35988 (会話 | 投稿記録)
m 愛宕
3行目:
文化11年(1814年)5月16日生まれ。幼名は保三郎。初名は崇広。[[1822年]]6月、[[毛利斉元]]の養嗣子となる。天保元年([[1830年]])、斉広と名乗って叙任する。天保7年(1836年)9月8日に斉元が死去したため、同年12月10日に後を継ぐが、20日足らずの12月29日に23歳の若さで死去する。文化人としては有能で、[[林述斎]]に師事して「与人論」や「世子告文」など多くの書物を残している。後を養嗣子の[[毛利敬親]]が継いだ。
 
法号:崇文院殿天常端誠大居士。墓所:[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[愛宕 (港区)|愛宕]][[青松寺]]。萩市椿の大照院。
 
{{先代次代|[[長州藩|毛利氏歴代(長州藩13代)当主]]|1836|[[毛利斉元]]|[[毛利敬親]]}}