「アンヌ・マリー・マルティノッジ」の版間の差分

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'''アンヌ・マリー・マルティノッジ''' ('''Anne Marie Martinozzi, princesse de Conti''', [[1637年]] - [[1672年]][[2月4日]])は、コンティ公[[アルマン・ド・ブルボン (コンティ公)|アルマン]]の妻。[[イタリア語]]名:アンナ・マリーア・マルティノッツィ。
 
[[ファーノ]]方伯ジェローラモ・マルティノッツィと、妻ラウラ・マルゲリータ・マッツァリーニの長女として、[[ローマ]]で生まれた。妹は[[モデナ]]公妃となった[[ラウラ・マルティノッツィ|ラウラ]]。母の妹ジェローラマ・マッツァリーニの生んだ娘たち、[[ラウラ・マンチーニ|ラウラ]]、[[マリー・マンチーニ|マリーア]]、[[オリンピア・マンチーニ|オリンピア]]、[[オルタンス・マンチーニ|オルテンシア]]、[[マリア・アンヌ・マリー・マンチーニ|アンナ・マリーア・アンナ]]は従姉妹にあたる。アンヌ・マリーと従姉妹たちは、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の宰相だった叔父[[ジュール・マザラン|マザラン枢機卿]]の持ち駒のように、政策の道具として王侯貴族へ嫁いだ。アンヌ・マリーは、[[フロンドの乱]]で叛乱側に加わっていたアルマンが、マザランと和解した際にその証として、縁組みが整えられた。1654年、アンヌ・マリーは60万リーヴルの持参金付きでアルマンと結婚。2子をもうけた。
*[[ルイ・アルマン1世 (コンティ公)|ルイ・アルマン]](1661年-1685年) 第2代コンティ公。ルイ14世の庶子[[マリー・アンヌ・ド・ブルボン]]と結婚。[[天然痘]]にかかり早世。
*[[フランソワ・ルイ (コンティ公)|フランソワ・ルイ]](1664年-1709年) 第3代コンティ公