「アンヌ・マリー・マルティノッジ」の版間の差分
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コンティ公は王位には程遠い |
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[[Image:Martinozzi, Anne-Marie.jpg|thumb|right|280px|コンティ公爵夫人アンヌ・マリー]]
'''アンヌ・マリー・マルティノッジ'''
[[ファーノ]]方伯ジェローラモ・マルティノッツィと、妻ラウラ・マルゲリータ・マッツァリーニの長女として、[[ローマ]]で生まれた。妹は[[モデナ]]公妃となった[[ラウラ・マルティノッツィ|ラウラ]]。母の妹ジェローラマ・マッツァリーニの生んだ娘たち、[[ラウラ・マンチーニ|ラウラ]]、[[マリー・マンチーニ|マリーア]]、[[オリンピア・マンチーニ|オリンピア]]、[[オルタンス・マンチーニ|オルテンシア]]、[[マリア・アンナ・マンチーニ|マリーア・アンナ]]は従姉妹にあたる。アンヌ・マリーと従姉妹たちは、[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]の宰相だった叔父[[ジュール・マザラン|マザラン枢機卿]]の持ち駒のように、政策の道具として王侯貴族へ嫁いだ。アンヌ・マリーは、[[フロンドの乱]]で叛乱側に加わっていたアルマンが、マザランと和解した際にその証として、縁組みが整えられた。1654年、アンヌ・マリーは60万リーヴルの持参金付きでアルマンと結婚。2子をもうけた。
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夫アルマンが1666年に急死後、修道院に入った。子供たちは父方の伯母ロングヴィル公爵夫人[[アンヌ・ジュヌヴィエーヴ・ド・ブルボン=コンデ|アンヌ・ジュヌヴィエーヴ]]や、伯父[[コンデ公]][[ルイ2世 (コンデ公)|ルイ2世]]の元で教育された。
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[[Category:フランス
[[Category:イタリアの貴族]]
[[Category:フランスブルボン朝]]
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