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[[image:Louis prince de Condé.jpg|right|thumb|200px|コンデ公ルイ1世]]
'''ルイ1世・ド・ブルボン=コンデ''' ('''Louis Ier de Bourbon-Condé''', [[1530年]][[5月7日]] - [[1569年]][[3月13日]])は、初代[[コンデ公]]。[[ユグノー戦争]]時の[[ユグノー]]派首領で、将軍だった。
 
ヴァンドーム公シャルル4世とアランソン公女フランソワーズの末子として生まれた。兄はヴァンドーム公[[アントワーヌ (ヴァンドーム公)|アントワーヌ]]で、のちの[[フランス王国|フランス]]王[[アンリ4世 (フランス王)|アンリ4世]]は甥である。
 
フランス軍の将軍として、彼は1552年の[[メス (都市)|メス]]包囲で戦った。この戦いで[[ギーズ公]][[フランソワ (ギーズ公)|フランソワ]]は[[カール5世 (神聖ローマ皇帝)|カール5世]]からメスを守りきった。1557年に再度[[サン・クエ=カンタン]]の戦いでも[[神聖ローマ帝国]]に勝利した。彼は[[プロテスタント]]に改宗後、1560年にアンボワーズの陰謀に巻き込まれた。これは、[[フランソワ2世 (フランス王)|フランソワ2世]](ギーズ公フランソワの姪、[[スコットランド]]女王[[メアリー (スコットランド女王)|メアリー]]を妻としていた)を[[カトリック教会|カトリック派]]首領のギーズ公から引き離そうとする、ユグノーと[[ブルボン家]]の者たちが仕組んだものだったが、失敗に終わり、多くのユグノーが虐殺された。
 
ルイ1世は宗教戦争でユグノーの一員として戦い、1562年に[[ドルー]]で捕らえられた。[[オルレアン]]では、ギーズ公フランソワが暗殺された。1563年、王太后[[カトリーヌ・ド・メディシス]]からユグノーに一定の信仰の自由を与える条件を引き出し、カトリック派とアンボワーズの和議を交渉。1567年に戦争が再発した後、彼は1569年の[[ジャルナックの戦い]]で戦死した。
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==子女==
1551年、ルシー伯女エレオノール・ド・ロワイエと結婚。3人が成人した。
*[[アンリ1世 (コンデ公)|アンリ1世]](1552年 - 1588年)
*フランソワ(1558年 - 1614年)  コンティ公
*シャルル(1562年 - 1594年) [[ルーアン]][[大司教]]
 
1565年、ロングヴィル公女フランソワーズ・ド・ロングヴィル=ロトランと再婚。成長したのは1子である。
*シャルル(1566年 - 1612年) ソワソン伯
 
{{先代次代|[[コンデ公]]|[[?]] - [[1569年]]|新設|[[アンリ1世 (コンデ公)|アンリ1世]]}}
 
{{DEFAULTSORT:るい1  こんてこう}}
[[Category:ブルボン=コンデ家]]
[[Category:ヴァロワ朝]]