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'''醍醐の花見'''(だいごのはなみ)とは、慶長3年([[1598年]])春に[[豊臣秀吉]]([[1536年]]または[[1537年]]~[[1598年]])が[[京都]]の[[醍醐寺]]において、[[豊臣秀頼]]、[[北政所]]、[[淀殿]]ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の者など約1300名を従えて盛大に催した[[花見]]の宴である。
 
その日の輿の順も記録に残されており、一番目に北政所、二番目が淀殿、三番目に[[京極竜子|松の丸殿]]、四番目、[[三の丸殿]]、五番目、[[摩阿姫|加賀殿]]、その後に、側室ではないものの、前田利家正室[[芳春院]]と続いた。
宴会の席では、淀殿の次に杯を受けるのを、淀殿と松の丸殿が争い、芳春院がその場をうまく取りおさめたという話が伝わっている。
 
[[応仁の乱|応仁・文明の乱]]のあと荒れ果てていた醍醐寺を復興した中興の祖、第80代[[座主]]である[[義演准后]](ぎえんじゅごう)([[1558年]] - [[1626年]])は、豊臣秀吉の[[帰依]]を得て良好な関係を築いていたが、秀吉の最期が近いことを感じ取り、一代の華美な英雄の最後にふさわしい大舞台をしつらえるために、あちこちにそれとなく手配をしてこの醍醐の花見を催させたともいう。秀吉はこの約半年後に没する。