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'''若松 勉'''(わかまつ つとむ、[[1947年]][[4月17日]] - )は、[[北海道]][[留萌市]](当時:留萌郡留萌町)出身の[[プロ野球選手]]・[[プロ野球監督]]、[[野球解説者]]。右投げ左打ち。現役時代は[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトアトムズ・スワローズ]]で19年の長きに渡り活躍し、引退後はヤクルトで打撃コーチ・2軍監督・監督を務めた。
 
== 来歴・人物 ==
[[北海高等学校|北海高]]を卒業後、[[NTT北海道 (野球チーム)|電電北海道]]に入社。[[1970年]]の[[ドラフト会議|ドラフト]]3位でヤクルトから指名され、[[1971年]]入団。留萌中学時代までは全国大会出場もした[[スキー]]と[[野球]]の二足のワラジであったが、スキーで[[旭川南高校]]、野球で[[北海高校]]か[[札幌商業高校]]、勉強で[[留萌高校]]か進学先を決めあぐねていたが、一番熱心にセレクションに誘われた北海高校の野球一本絞り込み入部、その結果「ヤクルトの若松」が生まれることとなる。
 
現役時代は長打力を兼ね備えた俊足のアベレージヒッターとして活躍。[[1987年]]のシーズンの序盤に守備での味方選手との激突により重症を負う。怪我から復帰後は、出場機会はもっぱら代打でのものとなったが、代打の切り札としての存在感を見せ付けた。[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]][[最優秀選手 (野球)|MVP]]を1度、[[首位打者]]を2度、[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]・[[ゴールデングラブ賞]]も数度に渡り受賞。打率3割を12回達成し、規定打席に到達した14シーズン中、実に12シーズンが3割以上というミートの達人。通算[[打率]].319は、現役選手を除けば日本人第1位(外国人を含めれば[[レロン・リー]]の、現役では[[小笠原道大]]の、それぞれ.320が上回る)。
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[[1989年]]に現役引退。42歳まで現役を全うした。同年、球団一筋19年、初の日本一での原動力となった'''小さな大打者'''に対し、背番号1を[[永久欠番]]にとの署名が多く集まり、ヤクルトは史上初の「準永久欠番」に制定。以後、背番号1は[[池山隆寛]]、[[岩村明憲]]といったチームの顔となる生え抜き選手のみに着用が許される番号となった。
 
[[名球会]]会員。[[1978年]]に[[留萌市民栄誉賞]]、[[1981年]]に[[道民栄誉賞]]を受賞。引退後は[[テレビ朝日]]・[[文化放送]]・[[日刊スポーツ]]の解説者を経て、[[1993年]]にヤクルトに復帰。打撃コーチ・二軍監督を歴任し、[[1999年]]より監督に就任。当時、若松をよく知る北海高校の有力OBは、「(若松は人が良すぎるので)プロの監督としては苦労するのではないか」と心配していた。就任当初の2年間は連続Bクラスに低迷したが、[[2001年]]にリーグ優勝を果たし、[[大阪近鉄バファローズ]]との[[2001年の日本シリーズ|日本シリーズ]]を制して日本一に輝く。
 
監督就任にあたっては、[[野村克也]]前監督のID野球からの脱却をスローガンとしたものの、そう簡単にチームカラーを変えるわけにも行かず、ID野球を払拭できずむしろ尊重するようにまでなった。その一方で、監督就任以来掲げていたスピード野球はなかなか浸透しなかった。特に野手は毎年のように若手戦力不足に泣かされ、野村前監督時代からのベテランを多く起用する傾向があったが、[[2005年]]になってようやく[[青木宣親]]・[[宮出隆自]]らの若手がレギュラーを張るまでになった。投手起用に関しては、率直に本分ではないことを認め、ほぼ[[伊東昭光]]投手コーチに一任していた。[[古田敦也]]曰く「この人を勝たせてあげないといけないと思ってしまう監督」。
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*プロ入り時、所属していた[[NTT北海道 (野球チーム)|電電北海道]]の応援団からヤクルトの応援団に、応援歌が譲り渡された[http://www3.ocn.ne.jp/~champ/dan/midi.htm#マーチ]。球団間の移籍により応援歌が譲り渡されるケースはごくまれにみられる([[大村直之]]など)が、社会人チーム→プロ野球チームのケースは若松以外にはないものと思われる。
*入団当時の[[三原脩]]監督や[[中西太]]ヘッド兼打撃コーチの指導と本人の猛練習で培われたバットコントロール、ミートの上手さは天才的。[[三振]]が非常に少なく、特に[[1977年]]にはシーズンを通じてわずか14三振という驚異的な数字を残している。野村元監督曰く、「軸をブラして打てるのは[[イチロー]]か若松くらい」。なお、[[中日ドラゴンズ|中日]]の[[水原茂]]監督や[[読売ジャイアンツ|巨人]]の[[川上哲治]]監督(いずれも1971年当時)も若松のバッティングについて高く評価している。
*[[東京]]から実家の北海道[[留萌市]]へ[[公衆電話]]をかけていたが、当時10円玉しか使えない上、遠距離の通話料も高かった時代、チームの先輩が「電話機を倒すと、10円玉が落ちるスピードが遅くなるぞ」と言った冗談を真に受けて、本当に電話機を横倒しにして通話していたことがある。若松の生真面目な性格を表すエピソードである。
*現役時代の監督であり、ヤクルトを日本一に導いた[[広岡達朗]]を尊敬しており、広岡が球団と対立し監督を辞めた時、「どうして辞めてしまうんですか?」と泣きながら電話してきた唯一人の主力選手といわれる。野村監督の勇退を受けてヤクルト監督に就任した時も、「果たして僕に監督ができるのでしょうか」と広岡に相談している。
*[[1980年代]]前半、[[ヤクルト本社]]の「ヤクルト野菜ジュース」の[[コマーシャル]]モデルに起用された(その時のキャッチコピーは「クリーンヒット」と[[緑黄色野菜]]を絡ませて「グリーンヒット」)他、[[ストライカー (曖昧さ回避)|ストライカー]]([[スポーツドリンク]] 現在は終売中)のラベルのイラストのモデルを務めたともされている。
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*監督時代の晩年は[[腰痛]]に悩まされたが、本人曰く「[[胴上げ]]で宙返りしてからひどくなった」とのこと。
*[[2004年]][[6月9日]]の対[[横浜ベイスターズ|横浜]]戦で7回に横浜・[[佐伯貴弘]]の一塁ゴロの判定に激怒して一塁塁審を突き飛ばし、若松にとって野球人生初の退場となった。普段は物静かで温厚な若松がそのように激情を表に出したのは珍しい。
*[[2004年]]プロ野球選手会のストライキ時、球団が減るかもしれないこと[[近鉄バッファローズ]]の[[オリックスブルーウェーブ]]への吸収合併危惧反対して、選手会の署名活動に署名している。
*[[2005年]][[5月28日]]、[[札幌市円山球場]]開場70年記念試合[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]vsヤクルト戦の[[始球式]]で打者として打席に立った。現役監督が公式戦の始球式に参加するのは異例だが、ビジターであったにもかかわらず若松には大声援が送られた。北海道での若松の人気は非常に高く、また[[佐藤真一]](札幌市出身)や[[五十嵐亮太]](留萌市出身)、[[米野智人]](札幌市出身)など北海道に縁のある選手が在籍していたこともあり、年一度[[札幌ドーム]]で開催されるヤクルト主催試合は、巨人戦や[[阪神タイガース|阪神]]戦に次いで多くの観客で埋まっていた(日本ハムの札幌移転と[[日本生命セ・パ交流戦|セ・パ交流戦]]開始に伴い、北海道でのヤクルト主催試合は2004年限りで打ち切られた)。それもあって、日本ハムの次期監督に若松を望むファンの声が高い。
*2005年[[10月14日]]、本拠地[[明治神宮野球場|神宮球場]]でのシーズン最終戦対横浜試合終了を以って、7シーズンに渡って務めた監督を退任。辞任の記者会見では「'''1度しか日本一になれず申し訳なかった'''」と発言した。これも若松の人柄の象徴であり、退任して野球解説者となった現在でも多くのヤクルトファンに親しまれる理由の一つであろう。試合前に退任セレモニーで選手達による[[胴上げ]]が企画されているのを知り、上記理由により固辞する旨を公言していたが、いざセレモニー終了後、次期監督の古田敦也から説得され胴上げを受け入れる。なお、この時の胴上げは腰に負担をかけないように低く、体が回転しない様に足首を押さえながらの胴上げだった。
*小柄で頼りなさ気な外見と、低くて渋い声もあり、隠れた球界の[[マダムキラー]]でもある。