「吉井藩」の版間の差分
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== 藩史 ==
[[小田原征伐]]後、[[関東]]に入部した[[徳川家康]]は、[[譜代]]の家臣・[[菅沼定利]]に2万石で吉井に入れた。これが吉井藩の立藩である。定利は[[天正]]20年([[1592年]])に領内で[[検地]]を行
[[天和 (元号)|天和]]2年([[1682年]])3月29日、[[大番頭]]だった[[堀田正休]]が1万石で入って吉井藩を再立藩した。正休は[[元禄]]11年([[1698年]])3月7日に[[近江宮川藩]]に移され、再び吉井藩は廃藩・天領となった。
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[[宝永]]6年([[1709年]])4月6日、[[松平信清]]は上野国内において3000石を加増されて1万石の[[大名]]となり、諸侯に列したため、陣屋を矢田(現在の吉井町矢田)に置いて吉田藩を再立藩した。このため、吉井藩は矢田藩とも言われている。だが、幕末期の[[元治]]元年([[1864年]])7月21日、第9代藩主・[[松平信発]]が陣屋を吉井に移したため、正式に吉井藩となった。
ちなみに最後の藩主家となった松平(鷹司)氏であるが、この松平氏は公家で有名な[[鷹司家]]の系統で、[[徳川家光]]の正室として[[鷹司信房]]の娘・孝子が輿入れのとき、孝子に従って信房の弟・[[鷹司信平|松平信平]](信清の祖父)が[[江戸]]に入ったことから始まった。<SMALL>(また、一説では信平は[[徳川忠長]]の遺児・[[松平長頼]](長七郎)の子が[[徳川頼宣]]の仲介で鷹司家に引き取られたものといわれているが、年代的にあわないため俗説の範疇を越えるものではない)。</SMALL>信平は[[承応]]3年([[1654年]])3月10日、松平姓を与えられて松平信平と名乗った。[[延宝]]2年([[1674年]])には上野と[[上総国]]両国内において7000石の知行を与えられた。その後、嫡男[[松平信政|信政]]、その子信清に引き継がれ、信清の時代に1万石の大名となったのである。小藩ながらその待遇は[[国主]]格、あるいは[[徳川御三家|御三家]]と同様に遇されていた。
しかし小藩さながらの悲しさから、第5代藩主・[[松平信成]]の頃から財政難が始まる。信成は[[寛政]]9年([[1797年]])に倹約令を出したが、効果は無かった。第7代藩主・[[松平信敬]]も倹約令などを出して財政再建を主とした藩政改革を行
明治2年([[1869年]])の[[版籍奉還]]では上野国諸藩に先駆けて行
▲明治2年([[1869年]])の[[版籍奉還]]では上野国諸藩に先駆けて行ない、信謹は藩知事となる。しかし同年12月25日、信謹は藩知事を辞したため、ここに吉井藩は廃藩となった。その後、吉井の地は[[岩鼻県]]、群馬県、熊谷県を経て、群馬県に最終的には編入されたのであった。
== 現存建物 ==
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