「アスコルドの墓」の版間の差分

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以前ではありません。ルーシとは別にして、キエフの政権はすでに8世紀半ばに存在していたとされている
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[[画像:IMG 2234-1.JPG|thumb|right|150px|アスコルドの墓の公園]]
[[画像:IMG 2232-1.JPG|thumb|right|150px|[[クルーティの戦い]]で戦死した青年を祭る記念十字架。]]
'''アスコルドの墓'''([[ウクライナ語]]:'''{{lang|uk|Аскольдова могила}}''')は[[ウクライナ]]の首都[[キエフ]]、[[ペチェールシク]]地区、[[ドニエプル川|ドニプロ川]]右側の斜面に位置する地域。また、同名の[[公園]]。[[9世紀]]の[[アスコルド]]という[[キエフ大公国|キエフ]]以前の[[君主]]が葬られたことにちなんで呼ばれている。[[6世紀]]、[[マジャル人]]の民族移動がその地域を通して行われていたため、昔から「ハンガリー人の地帯」(ウクライナ語:'''{{lang|uk|Угорське урочище}}'''、ウゴールシケ・ウローチシュチェ)とも呼ばれている。
 
[[10世紀]]、その地域では[[キリスト教]]の[[聖ムィコラーイ教会 (アスコルドの墓)|聖ムィコラーイ教会]]が建立された。15世紀以降、その地域はムィクィールシクィイ砂漠修道院の領土となり、キエフの周辺の[[墓地]]として利用されてきた。[[1934年]]、[[ソビエト連邦]]はアスコルドの墓にあった数百年の歴史を持つ墓地は公園に変え、教会内でレストランを開かせた。[[1941年]]、ドイツの支配下のころに墓地と教会は元に戻されたが、戦後は再び公園が設けられた。