「マティアス・シンデラー」の版間の差分

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== 歴史 ==
[[1918年]]、15歳の時に機械工見習として働きながらASVヘルタ・[[ウィーン]]のユースに入団した。若い頃から膝に持病を抱えており半月板を手術したため、いつも右膝にサポーターを巻いて試合に出ていた。このことも彼が肉体的接触を避けるプレースタイルを確立していった一因と見られる。[[1924年]]にはウィーンAS(ウィーンアマチュアスポーツクラブ)へ移籍した。[[1926年]]に同チームが[[FKアウストリア・ウィーン]]となってからも、中心選手として2回のミトロパ・カップ([[UEFAチャンピオンズリーグ]]の前身といわれる、[[ハンガリー]]、[[オーストリア]]、[[チェコスロバキア]]、[[イタリア]]の4カ国(後に[[スイス]]が加わり5カ国)のクラブチームによるカップ戦)優勝などに大きく貢献した。
 
1926年には初めてオーストリア代表に選出され、中心選手となっていった。その後、当時の監督であったウーゴ・マイスルに敗戦の責任を取らされる形で代表に呼ばれなくなった時期があったものの、しばらくして復帰した。シンデラー復帰後のオーストリア代表は、1931年4月から1934年6月までの3年あまりで30試合して21勝6分3敗という結果を残した。