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[[後漢]]では王莽政権を否定するため、古文経伝に学官が立てられることはなかった。そのため、古文学は在野で行われ、経文の一字一句を解釈する[[訓詁学]]を発展させた。[[五経博士]]を主体とした今文経学が一経専門で家法の伝授を墨守し、他経にまで通ずることがなかったのに対し、古文学は博学でさまざまな理論を取り入れつつ、[[六経]]全般を貫通する解釈学構築を目指した。そのなかで今文と古文を字体の差異に還元し、字形にもとづく解釈学を発展させた[[許慎]]の『[[説文解字]]』も生まれている。また[[鄭玄]]は[[三礼]]を中心に[[六経]]に通ずる理論体系を打ち出し、後漢の経学を集大成したのである。この結果、完全に今文経学の伝承は途絶え、[[儒学]]は古文学の独壇場となった。
 
しかしこのように一本化されたことによって、逆に[[唐]]代になると今文古文の差異が重視されなくなり、その存在感に影が差し始める。[[北宋|宋代]]になると一字一句にこだわる訓詁学に対して異議が唱えられ、字義よりも思想内容を重視した[[朱子学]]などの新しい経学が生まれた。
 
しかし、[[清]]代になると朱子学の解釈学が主観的すぎるとの批判がおこり、[[乾嘉の学]]([[考証学]])では、古文学をもとに漢学の復興がはかられた。その後、[[常州学派]]が[[今文学]]を重視し、古文経伝は[[劉キン|劉歆]]の偽作と主張された。