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[[画像:Genji Shibukawa.jpg|thumb|180px|渋川玄耳]]
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'''渋川 玄耳'''(しぶかわ げんじ、[[1872年]][[6月3日]] - [[1926年]][[4月9日]])。明治期に活躍した
==経歴==
[[佐賀県]][[杵島郡]]西川登村小田志(現
[[日露戦争]]で従軍法務官として満州に出征した際、[[東京朝日新聞]]特派員の[[弓削田精一]]と親しくなり、東京朝日新聞に現地ルポを寄稿するようになる。それらの文章は『従軍三年』という書物にまとめられ評判を呼ぶ。弓削田の推薦で熊本出身の[[池辺三山]]主筆に請われ、[[1907年]](明治40年)3月東京朝日新聞へ入社。「辣腕社会部長」として斬新なアイディアを次々に出し、記事の口語体化や、社会面の一新、家庭欄の充実を図る。「取材法」や「記者養成システム」を、現在につながる方法に革新。
熊本時代の知己であった夏目漱石を社員として東京朝日新聞へ招くことに尽力し、[[石川啄木]]を抜擢して『[[朝日歌壇]]』を創設。(啄木の歌集『[[一握の砂]]』の序文を藪野椋十の筆名で執筆している)
[[1910年]](明治43年)中央大学に新聞研究科が設置された際、会社の同僚で親友でもある[[杉村楚人冠]]とともに、「中央大学学員」として同研究科の講師を務めた。
名社会部長として「新聞制作の近代化に不朽の足跡」を残すも、性格的に狷介なところがあり、頼みの池辺三山も不祥事の引責で辞め、社内で孤立。自身の離婚問題なども重なり、[[1912年]](大正元年)11月に東京朝日新聞を退社する。以後はフリーランスとなり、文筆活動で生計を立てる(フリージャーナリストの先駆けとも言われている)。しかし、晩年は貧苦と病気により、寂しいものであった。
== 作品一覧 ==
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== 参考文献 ==
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*園田日吉『佐賀この地この人』夕刊佐賀新聞社 1985年
*[[古賀行雄]]『評伝 渋川玄耳』( 文芸社) ISBN 4-286-00066-4▼
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*安田満『玄耳と猫と漱石と』邑書林 1993年 ISBN4-946407-65-0
*牧村健一郎『新聞記者夏目漱石』平凡社新書277 2005年 ISBN4-582-85277-7
== 外部リンク ==
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